出品リスト/Haruo Higuma
<Memory of Water>2004年/インスタレーション/DVD、紗幕、水、ガラス瓶
<Water Moon>2004年/インスタレーション/ビデオ、紗幕、プラスティック、水、紙コップ
<Difference>2004年/インスタレーション/ビデオ、DVD、紗幕
<Peek>2004年/インスタレーション/DVD、紗幕

”The Shining Sun”は、テヘラン現代美術館で開催された。日本の5名の作家+イランの映画監督アッバス・キアロスタミが参加した。日本作家は、Yaeko Komiya、Haruo Higuma、Shigeno Sawada、Tokio Maruyama、Nobuki Yamamotoだった。個々の作家の作品は個人に委ねるとにしてHPにはUPしていない。

Memory of Water

「ミズの記憶・記憶する水」は、1999年7月22日にスタートした。このプロジェクトは、水を採集することからはじまっている。水を採集するためには水のある場所に行かなくてはならない。身体の移動と環境の把握が必要になる。テヘランでは美術館の水を採集した。

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Water Moon

「Water Moon 2004」は、月をイメージした映像と水をイメージした映像の二種類が、二枚の円形のスクリー ンを透過して床で重なり映る。床には綿に水をしたした93個のコップに、かいわれ大根の種を蒔いている。かいわれ大根は発芽する。

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DIFFERENCE

「間違い探しゲームを考えてみる。二つの絵があって、違うところを探し当てるゲームである。間違いは、どこにあるのか。片方をオリジナルとすれば、もう 片方はコピーである。片方が本物なら、もう片方はまがい物である。では、間違いは、コピーとまがい物の側にあるのか。コピーとまがい物が、間違っているの か。そんなことはない。両者の違いは、間違いなく、両者の間にある。差異は、両者の間にあるのだ。では、差異はどこから出現するのか。間違い探しの制作過 程を考えてみる。制作者は、差異を出現させる為に二つの絵を書く。しかし制作者の意図が、差異を出現させるのではない。その意図がなくても、二つの絵を描 くと、必ずどこかに差異が出現する。たとえ瓜二つであっても、出来上がる時間と空間に差異がある。二つの絵が出現するということは、差異が出現することである。むしろ差異こそが、二つの絵を分化して現実化するのだ。差異の哲学の基本的な問いは、このような差異が、どこから出現するかということであ る。・・・・」(「ドゥルーズの哲学」小泉義之訳書)     

この文章が「DIFFERENCE」のヒントになっている。ビデオプロジェクターは投影すると、一点透視の構造をつくる。空間に半透明のスクリーンを何 枚も設置すると、投影された映像は、小から大へとスクリーンの数だけ画像をつくる。その画像と画像の間を移動することでこの作品は成立する。
そして、ドゥルーズの言葉を借りれば「差異がどこから出現するのか」を見極めることになる。

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Peek

『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・次元移動の装置として』あるいは自己言及のアート 

 デュシャンの「遺作」つまり『1.落ちた水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』は、「大ガラス」つまり『 花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも』の三次元ヴァージョンだと思われれる。「大ガラス」が、《花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも》なるものの二次元的提示であるのに対して。もっとも、観客の行 為を見て言えば、観客が遠近法でできた二次元平面を見るときに、三次元のものの転写を見ていると言える。そうであれば、原理的には、観客が三次元のものを見るとき四次元のものの転写を見ているとも言える。
 しかし、『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・・・・次元移動の装置として』は、これを逆転するかように見える。 覗き見の小穴から奥を覗くと、オーロラのような極薄のヴェールは揺れその奥でダンスがエロティックに踊られてい るのだが、どうも奥行きが欠落していて二次元的にしか見えないのである。デュシャンがエロティスムは三次元から 四次元へ次元移動するとき蝶番のような役割を果たすというが、ヒグマの場合が、これが逆になっているように 見える。なぜだろうか。
 ヒグマの場合、おそらく、覗き見るものにとってはその内部が逆光で照明されているため、ヴェールが二次元的に しか見えないだけでなく、その奥のダンスも二次元化してしか見えないのだろう。そうであるならば、ヒグマは、カ メラ等の遠近法的機材を用いずに三次元的振る舞いを三次元において二次元的に捉えたことになる。いったいこれを どう考えればよいのだろうか。アートとは、さらにはわれわれが見る世界とは、あるいは「われわれ」という世界が 、一種の表象でしかないと言っているのだろうか。そうであれば、ヒグマのアートは、きわめて自己言及的なアート というべきだろうか。
(広域芸術論、北山研二)  

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