"The Shining Sun"テヘラン現代美術館 /Haruo Higuma
14Dec.to 19Jan.2005

出品リスト/Haruo Higuma
<Memory of Water>2004年/インスタレーション/DVD、紗幕、水、ガラス瓶
<Water Moon>2004年/インスタレーション/ビデオ、紗幕、プラスティック、水、紙コップ
<Difference>2004年/インスタレーション/ビデオ、DVD、紗幕
<Peek>2004年/インスタレーション/DVD、紗幕

”The Shining Sun”は、テヘラン現代美術館で開催された。日本の5名の作家+イランの映画監督アッバス・キアロスタミが参加した。日本作家は、Yaeko Komiya、Haruo Higuma、Shigeno Sawada、Tokio Maruyama、Nobuki Yamamotoだった。個々の作家の作品については個人に委ねるとにしてHPにはUPしていない。



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Memory of Water

テヘランでは美術館の水を採集し展示した。「ミズの記憶・記憶する水」は、1999年7月22日にスタートした。この日は、沖縄県庁前の池で採集した日だ。このプロジェクトは、水を採集することからはじまっている。水を採集 するために水のある場所に移動する。身体移動と環境把握が不可欠である。わたしは身体には二通りの方法で情報をインプットすると考えている。それは脳器官が記憶する場合と、皮膚感覚が記憶する場合とである。そこには再生可能な情報もあれば身体記憶の中に留まっている情報もある。

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Water Moon

インスタレーションは紙コップを亀の甲羅をイメージして床に並べた。紙コップには天井から投影される映像が映し出されている。コップに綿を敷き水を注ぎ「カイワレ大根」のタネを蒔いた。かいわれ大根は一週間もすると発芽する。そして成長の過程に映像を投影すると「カイワレ大根」は光の方を向く。映像は動いているので成長の方向がランダムになっている。植物の成長にとって水と光は絶対ということを改めて学んだ。

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DIFFERENCE

インスタレーションに必要な半透明のスクリーンをテヘラン の街で探した。何軒もの店を探したが日本のサイズと違っていた。当然と言えば当然のことだがサイズの違いによって微妙にイメージが変わった。ここにも「差異がどこから出現するのか」という問いが現れている。
「間違い探しゲームを考えてみる。二つの絵があって、違うところを探し当てるゲームである。間違いは、どこにあるのか。片方をオリジナルとすれば、もう 片方はコピーである。片方が本物なら、もう片方はまがい物である。では、間違いは、コピーとまがい物の側にあるのか。コピーとまがい物が、間違っているの か。そんなことはない。両者の違いは、間違いなく、両者の間にある。差異は、両者の間にあるのだ。では、差異はどこから出現するのか。間違い探しの制作過 程を考えてみる。制作者は、差異を出現させる為に二つの絵を書く。しかし制作者の意図が、差異を出現させるのではない。その意図がなくても、二つの絵を描 くと、必ずどこかに差異が出現する。たとえ瓜二つであっても、出来上がる時間と空間に差異がある。二つの絵が出現するということは、差異が出現することである。むしろ差異こそが、二つの絵を分化して現実化するのだ。差異の哲学の基本的な問いは、このような差異が、どこから出現するかということであ る。・・・・」(「ドゥルーズの哲学」小泉義之訳書)     
この文章が「DIFFERENCE」のヒントになっている。ビデオプロジェクターは投影すると、一点透視の構造をつくる。空間に半透明のスクリーンを何枚も設置すると、投影された映像は、小から大へとスクリーンの数だけ画像をつくる。その画像と画像の間を移動することでこの作品は成立する。
そして、ドゥルーズの言葉を借りれば「差異がどこから出現するのか」を見極めることになる。。

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Peek

イランではヒジャブと呼ばれるスカーフをかぶり頭髪を隠すことが義務づけられているらしい。インスタレーション「Peek」は内部で映像を浴びるダンサーを覗くというシステムになっている。イランの女性に中で踊っていただけませんかとお願いした。規則があるのでスカーフを取って人前に出ることはできないと言われた。仕方なく日本から持ち込んだ映像を映し出した。

『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・次元移動の装置として』あるいは自己言及のアート

デュシャンの「遺作」つまり『1.落ちた水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』は、「大ガラス」つまり『 花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも』の三次元ヴァージョンだと思われれる。「大ガラス」が、《花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも》なるものの二次元的提示であるのに対して。もっとも、観客の行 為を見て言えば、観客が遠近法でできた二次元平面を見るときに、三次元のものの転写を見ていると言える。そうであれば、原理的には、観客が三次元のものを見るとき四次元のものの転写を見ているとも言える。
 しかし、『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・・・・次元移動の装置として』は、これを逆転するかように見える。 覗き見の小穴から奥を覗くと、オーロラのような極薄のヴェールは揺れその奥でダンスがエロティックに踊られてい るのだが、どうも奥行きが欠落していて二次元的にしか見えないのである。デュシャンがエロティスムは三次元から 四次元へ次元移動するとき蝶番のような役割を果たすというが、ヒグマの場合が、これが逆になっているように 見える。なぜだろうか。
 ヒグマの場合、おそらく、覗き見るものにとってはその内部が逆光で照明されているため、ヴェールが二次元的に しか見えないだけでなく、その奥のダンスも二次元化してしか見えないのだろう。そうであるならば、ヒグマは、カ メラ等の遠近法的機材を用いずに三次元的振る舞いを三次元において二次元的に捉えたことになる。いったいこれを どう考えればよいのだろうか。アートとは、さらにはわれわれが見る世界とは、あるいは「われわれ」という世界が 、一種の表象でしかないと言っているのだろうか。そうであれば、ヒグマのアートは、きわめて自己言及的なアート というべきだろうか。(広域芸術論、北山研二)

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テヘラン現代美術館

テヘラン現代美術館の内部構造は螺旋系を描いている。1階、2階、3階という概念はなく螺旋構造を下に歩いていくと部屋がある。最後の部屋を出ると1階までの突き抜けの部屋がありそこの螺旋構造を上ると一階に出る。このとき壁面にはアッバス・キアロスタミの写真が展示された。テヘラン現代美術館は外見は一階建である。

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"The Shining Sun"展の野外看板


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"The Shining Sun"展のカタログ


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"The Shining Sun"展のレセプション


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美術館の中庭でTokio Maruyamaのパフォーマンス


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シンポジュウムは映画監督アッバス・キアロスタミを交えて行われた


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