ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.11

Visual Paradigm shif Vol.11 of Haruo Higum

「描いてみる」空気をけずる

2009年4月7日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫

映像パラダイムシフトVol.11より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

正面(以下「前」)と隣り合う(以下「横」)壁面一杯に紙のスクリーンが展開している。それぞれに対してプロジェクターと小型カメラが向けられている。床には、一辺50cmほどの正方形に包まれ紐で結わかれた何かが5つ、置かれている。赤や青に見えるが、これはライトの効果によるもので、本来は全て白色の包み紙である。
闇の中でワルツが流れる。ヒグマは前のスクリーン下部の中央に投影された赤い人体画の輪郭をペンでなぞっていく。この人体画は右手を差し伸べ、体が飛躍している。マチスの《ダンス》の一部である。
横のスクリーンは正面のスクリーンのライブ映像である。ヒグマの動作が投影されるので、影が生まれずヒグマが透き通ってみえる。
ヒグマは全ての輪郭線をなぞり切ると、ピンクのラメを用いて人体像の頭部、右手、再度頭部と線を加えていく。画像が切り替わる。
右手を先の人体に差し伸べ、左手を大きく掲げ、右足を伸ばし、首を捻り、体を捩る人体画がスクリーン左に登場する。二体目だ。ヒグマはその輪郭を追わず、内側をラメで塗りつぶす。
ヒグマの手に映像が映っているため、細部は勘で描いているようだ。音が暫く止まる。単に塗りつぶすのではなく陰影をつけたクロッキーのようになっている。映像が切り替わる。
スクリーン左上に、足を軽く広げて両手を小脇に軽く挙げ、下を向く人体画が登場する。左足は、初めの人体の左手と繋がる位置にある。三体目である。リズミックな曲がかかり、ヒグマは人体画の輪郭のみをなぞる。
横のスクリーンに移動し、青いペンで人体画のトレースをする。横のスクリーンのトレースは映像が邪魔をしない分、やりやすいのかも知れない。
四体目はスクリーン上部の中央で、両手を脇に大きく広げ、首を下に擡げ、左足を右足の脛に当てて立っている人体画である。ヒグマは輪郭を黒いチョークで、外側から塗りつぶしていく。更に高いテンポの曲が流れる。ヒグマは黒い線を余白にも広げていく。
五体目はスクリーン右下で、右手は三番目の人体画の左手と繋がる位置にあり、右手を横に広げ、右足を軸に左足を水平に投げ出している人体画である。ヒグマはその輪郭をなぞる。曲は程よいテンポのものになる。
輪郭をなぞり切ると、横のスクリーンの人体画の輪郭を青いクレヨンを用いてクロッキーしていく。クロッキーを終えると、クレヨンの広い面を使って陰影をつける。
曲がフェードアウトして無音になると同時に、それまで一体ずつであった人体画が5体同時にCGとして投影され、それぞれピンク、赤、水色、紫、緑、黄色と交互に点灯する。
ヒグマは水を含ませたスポンジで、前のスクリーンに描いた四体目の人体画の輪郭線を伸ばしていく。横のスクリーンに移行し、五体目の人体画の青い線を同じくスポンジで伸ばす。この効果は勿論、前のスクリーンには反映されない。
ヒグマは、フェードバックエフェクトされたライブ映像に切り替える。左掌を小型カメラに翳し、影をその映像と交差させる。何処にある小型カメラなのかは判断が難しい。横のカメラが前のスクリーンに、前のカメラが横のスクリーンに投影されている様子だ。
Beethovenの《月光》が流れる。五体の人体画は白いグリッドに変化し、解けて拡散しては纏り、再び人体を形作っていく。ヒグマは前のスクリーンの右上余白、左の人体全てに該当する箇所、下の余白を手で千切っていく。何が失われ、何が残っていくのか。ヒグマは前のスクリーンの全てを剥す。
五体の人物画のCGは、炎のように燃え盛る。Jazzが流れる。ヒグマは横のスクリーンを丁寧に外し、床に丸める。照明が落ち、床にある5つの包み紙にそれぞれ赤、青、赤、青、緑のライトが当たる。
ヒグマは赤のライトが当たる包みの紐を外し、紙を開いていく。中身は藁を円に編み上げた、これまでに見たことがないものだった。青を抜かし、赤のライトが当たる包みにとりかかる。同じものだ。包み紙が開封されると、そこを照らしていた光は潰える。
隣の青いライトが当たる包み紙を開ける。同じものである。
映像が止み、音が止まり、ヒグマはプロジェクターの蓋を閉じる。会場を包む光が落ち、50分の公演は終了する。


映像パラダイムシフトVol.11より

公演後、ヒグマは次のように話す。「五つの人体と五つのもの、ここに関係性をつくろうとした。この藁で編んだものは、新潟の集落の方がつくる、米俵の蓋である。だから重さと大きさは、作るとき常に同じでなければならない。この藁と五体のグリッドに関連性を生み出そうとしたのだ」。
ヒグマにとって映像とは、この藁のように有機的なものなのだ。CGであっても、デジタルではない。そのため、マチスの《ダンス》という誰にでも分かる作品が、全く異なる様相を呈したのだ。否、その本来の躍動感が強調されたのかも知れない。
それはヒグマの動作にも、関係しているとも考えられる。前のスクリーンにあっても、横のスクリーンに反映していない痕跡がある。痕跡。ヒグマは痕跡を主題にしているのではない。痕跡を辿っても、ヒグマのパフォーマンスを理解できるわけではない。すると、あらゆる痕跡を見直さなければならないであろう。行われたことと記憶したこと、見過ごしたことと忘却の彼方に消えたものとは何だろう。

照明:坂本明浩
撮影:川上直行