ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.16

Visual Paradigm shif Vol.16 of Haruo Higum

揺らぐ影の孤独

2009年11月24日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:工藤丈輝(舞踏)

映像パラダイムシフトVol.16より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

幅1.0、高さ2.5mほどの紗幕が六枚弛んで、蝶の羽の紋様を刻んだ40cm程のオブジェと共に吊るされている。向かって右と後方にはプロジェクターが設置されている。白塗りした工藤は白い襤褸を纏い、背を向けて座っている。
左の壁面に後方のカメラがとらえたライブ映像が投影され、公演が始まる。音楽は無い。工藤は体の左側面を下にして蹲り、足を上げて呼吸音を発生させる。ヒグマは後部のプロジェクターを開き、認識できない映像を前方に展開させる。
工藤は左、右と転がり、体の側面をつけては離す。襤褸を解し、顔を明らかにする。足裏を床につけ、襤褸を落としていく。前も左と同様、後方から撮影されたライブ映像だと理解することができる。
工藤は再び体の左側面を下にし、腰を浮かせ、膝を曲げる。左手が右手を掴み、体をしゃくり始める。右側面を下にして同じ動きを反復する。白塗りの粉が宙に舞う。ここには天井から垂直にスポットが当てられている。
正面のライブ映像に映る工藤は、ほぼ等身大だ。そのため、工藤の影にもリアルな感触が生まれる。工藤は体の向きを180度替えて立ち尽くす。顔には赤、青、黄の隈取が施されている。顔と逆立てた髪の毛を白塗りしている。
工藤は両肩を前に下げては戻す。膝を深く曲げて直す。粗い粒子の映像が直接、工藤を照らす。工藤は体をしゃくりあげては止まる。視線を宙にさ迷わせ、膝を曲げ力は抜けながら辺りを回る。
紗幕、影を通じて工藤が増殖する。工藤は蝶の羽のオブジェを見上げ、手を揺らめかせながら歩み続ける。突如両手を上げ、紗幕の間に滑り込むような身振りを見せる。素早いステップに対して、ヒグマはプロジェクターの上に載せたカメラで追う。
工藤は膝を張って二歩進め、下を向いて背を丸めていく。この呼吸音は禽獣だ。両手を横に広げ、揺るがす。このような硬い動きから強く、素早いステップに移行する。紗幕を二枚落とし、工藤も床に這う。
立ち上がり、爪先でにじり歩く。胸の前で掌をまとめ、硬直した動きに戻る。痙攣を起こし、後方に倒れ、立ち上がり、その場で飛び跳ね、体の左側面を下にして寝る。右膝から立ち上がる。
二つの映像は同じアングルでもプロジェクターの高さが異なるため、左の水平線は上向き、前はほぼ実像と同様になっている。工藤は三枚目の紗幕を落とし、身に纏う。ヒグマは前の映像を着色された蝶の葉のオブジェのCGに切り替える。その映像は、壁面にも、紗幕にも、また、工藤にも注ぎ込まれる。
四枚目、五枚目も身に纏った工藤は飛ぶ。最後の紗幕を手に入れると体の左側面を下にして沈黙する。映像のオブジェは増殖と減少を繰り返す。工藤は背を丸めて立ち上がり、中央に三枚の紗幕をまとめ、二枚を両手に持ち羽のように靡かせる。
前に落ちた一枚の紗幕を拾い上げ、翻し、襤褸も含めて全て中央にまとめ、腕を垂直に立ててさ迷う。素早く旋回し、紗幕に足をとられ倒れる。CGは拡大と縮小を繰り返し、左右に緩やかに動く。
工藤は中央の山から襤褸を取り出し羽織る。笑い、扉から表にでる。映像は続くが、やがて終演という約束のために沈黙する。ヒグマもまた扉を通じて表にでると、暗転し40分の公演は終了する。

映像パラダイムシフトVol.16より

何者をも模さない工藤は最小限に舞い、ヒグマもまた最小限の仕掛けと撮影で臨んだ公演であった。ヒグマには「同時代性としてのヴィデオパフォーマンス」(「肉体言語vol.12 特集・パフォーマンス」肉体言語舎/1985年6月)という小論があるので以下に引用する。
「ヴィデオの特性の中に、同時性という言葉がある。これには同時多発的に、同じことが展開できるという側面もあるが、私は、主に被写体と映像を同時に提唱できる、という意味で使っている。被写体とモニターに映しだされた映像を同時に見せること、あるいは、みることで、被写体や映像にどのような意味を感じさせるかが根本的な問題ではなく、この同時性のシステムによって、私たちの身体がどのような記憶操作をしていくのか、といったところが興味の原点のようなきがする。」
ヒグマの興味の原点に変化は生じていない。ヒグマにとって被写体=素材が重要なのではない。素材と映像を同時に展開することに意義があるのだ。同時性という言葉も「記憶操作」という語彙を交えれば難解な問いを発することになる。E.フッサールのいう「内的時間」、M.プルーストのいう「記憶」、W.ジェイムスのいう「現在」、M.フーコーのいう「操作」と、その論点は多々存在する。
哲学的論考を抜きにしたとしても、工藤が工藤と成り得たのはこのヒグマの思想に由縁しているに他ならない。それどころか、工藤の舞踏が持つ要素を別の角度から引き出したともいえる。それは動物性を剥ぎ取られたとかフォルムを強調されたというよりも、工藤が持つ所作の奥底に眠る純粋性を結晶したと言い換えることができるのであろう。それは同時に、工藤がヒグマに与えたものでもある。ヒグマの意図が、ここに浮彫となるのだ。

照明:坂本明浩
撮影:飯嶋康二