「上下に並べた2枚の写真」空気をけずる
2008年7月29日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
会場中央に半透明の紗幕が、大きく展開している。紗幕足元の一方には8cm位の釘が30本程、白い紙の上に置かれている。他方には黒い着衣が広げられ、その上に様々な小型アクセサリーが散りばめられている。共に天井から二重にした紐が垂れている。
暗転し、公演が始まる。赤い光が点滅する。それは暗闇の中でヒグマが紗幕の前に立ち、直接当てて生み出される光である。だからヒグマが紗幕から離れると、光の輪郭は大きくなり、その輪郭線は曖昧になっていく。
赤い光が潰えると、上下に並べた2枚の写真が紗幕に投影される。ヒーリング的な曲が流れ、釘と着衣に天井から垂直にライトが当てられる。正確な時間を計らなかったが、2枚の写真は凡そ1分で次の組にスライドされる。ヒグマの動作によってその時間が異なるようにも思えた。ヒグマは紗幕に映る写真を手持ちの小型ビデオカメラを用いて捕え、動画として紗幕に投影する。即ち、写真を動画で撮影しているのだから、そこに写りこむ動画を更にビデオカメラが捕え、合わせ鏡の様に無限の映像が発生していることになる。ヒグマは紗幕に近づいて、自らと自らの影も映像の一部にしていく。光は透過し、壁面にさえ届いている。私はここで、川崎市岡本太郎美術館における個展(2004年2月24日-4月11日)に展覧された《DIFFERENCE》をふと思い出した。この作品は小から大へと複数の紗幕が並び、映像が投影されると光は透過し三次元の世界が生れる。観客が「画像と画像の間を移動しながら視点の位置を変えて見ると、立体的な空間がつくられていることに気がつく」(無記名、同展カタログ作品解説)。ここでは観客であったが、今回はヒグマ自身が作品の間を縫う。それは、観客がヒグマでありヒグマが観客であることを示している。
動画は上の写真と重なるように配置され、今度は釘を捕らえている。ヒグマは指で紐を掴み、両手を広げて生れた紐の弛みを使って、釘を釣り垂直に立てようという困難な作業を何度も繰り返し試みる。この作業を成功させて、紐を天井から斜めに張ることに成功したのは、写真が十枚スライドする時間と同じだった。
動画を着衣に切り替え、ヒグマは次々と紐にアクセサリーを一つずつ括りつけ、上昇させてゆく。それによってオブジェと化す。15回程この作業を繰り返すと、初めに括り付けたライターが天井に届く。ヒグマはビデオカメラを天井に向け、下から天井に吊るされ揺さぶられて動くオブジェ群を捕らえる。
再び、動画は釘を写す。ヒグマは紐を一度巻いて輪を作り、釘を通し、その釘を15cm四方の白い紙に刺し、次々と上にあげていく。その数は九つだった。ヒグマが紐を絶え間なく揺さぶると、白い紙は次第に落ちていく。全てが散り、沈黙の中、ヒグマは釘の頭どうしをぶつけ、音を発生させる。映像が潰える。上部二点からのスポットライトが場内を照らす。釘の音がなる。暗転する。釘の音は続く。音が止み、70分の公演は終了する。
当日配布されたパンフレットを引用する。「2枚の写真を上と下に並べることを約束事とし、身近なモノを撮り、身近な写真を並べた。それぞれ2枚の写真には関係はない。関係はないが1枚1枚の写真の思い出が蘇ってくる。(中略)自分の身近なモノの写真を観ていると、どうしてこんなゴミみたいなモノが有るのか疑問に思う。だがけっこう捨てられないのである。」確かに上下の脈絡は感じられなかったが、主に上が風景で下がオブジェであった。銀の髪留めと金の背骨のような連なり、珊瑚のような青い球体と黄色く紅葉した木々といったように、色と形のバランスが絶妙であった。
この公演の特徴は、「よく見えない」ことにあった。紗幕の角度は客席から見て約45度のため、映像が良く見えない。紗幕の裏にヒグマが位置するため、ヒグマ自身の行為も良く解らない。紗幕に紗幕の動画を投影しているため、どのような映像が展開しているのか良く理解することができない。釘の動きが足元すぎて肉眼では見えないと映像に眼を凝らしても、その様子は捉えられていない。吊るされるオブジェの実体が小さすぎて、肉眼では捉えられないからと映像に眼を転じても、大きすぎて認識することが出来ない。しかしこれは、「映像」と「行為」、「見えるもの」と「見えないもの」、「実像」と「虚像」を曖昧にするための装置ではない。
このシリーズは、ヒグマのこれまでの歩みを回顧するものでも、これまで全く行なっていない最先端の公演でもない事が分かってきた。これは「パフォーマンス」でも「映像」でもなく、その前提にある「芸術」なのだ。「芸術」に規範はない。常に己との戦いなのである。
照明:坂本明浩
撮影:川上直行