ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.3

Visual Paradigm shif Vol.3 of Haruo Higum

「切り取られた砂浜の写真」空気をけずる

2008年8月26日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫

映像パラダイムシフトVol.3より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

中央に大きな紗幕が張られ、その下にそれぞれ異なる様子で砂浜に波が寄せる写真が7枚、床に広げられている。高40、幅20、奥行10cmほどの良く透き通った氷が入った白く丸い盥が二つ、プラスティックのコップが多数、竹と麻紐で形成されたインスタレーションが、床に置かれている。このインスタレーションは24本の横並びの紐が垂直に150cmほど上に伸び、水平に保たれた長さ1m位の竹に施された穴を経て下45度に垂れ、床に備え付けられている同じ長さの竹に、紐の先端に括りつけられている釘が刺さって展開されている。
暗闇の中、何かが弾ける様な単音が響く。ヒグマは点滅するライトを用いて氷と写真、インスタレーションを照らす。紗幕下部に、砂浜に波が寄せらる写真が投影される。
裸足のヒグマは氷が溶けて盥に零れた水を右手で柄杓を用いて汲み、壜に入れて蓋をし、デジタルカメラで撮影して紗幕上部に投影する。プラコップにも同様に水を汲み、写真の間に置いていく。4つを数えると上部の映像は光の当たる氷を捕え、水を汲み上げるリアルタイムの様子に変化する。それに気を取られることなくヒグマは作業を続け、計8個のコップを写真の傍らに置く。
水を汲み続け、今度はインスタレーションの紐の中央にコップを置く。下部の写真は波の動画になる。竹から釘を外し、コップの中にしまう。垂直に垂れ下がっていた紐の端を45度後方に伸ばし、レンガで止める。下部の映像は写真になる。同じ作業を繰り返し、コップを4つ並べる。下部の映像は動画になる。
ヒグマは一番横の紐を手に取り光の氷の上面にあてがい、奥から鉄鎚を取り出してきてそこに穴を、執拗にその釘で穿っていく。下部の映像は『越後妻有アートトリエンナーレ2006』 (越後妻有地区、新潟県十日町市、津南町/2006年7月23日〜9月10日)で撮影した《気力で念じて…》の写真のスライドショーになる。深さ、幅ともに5cmにはなっただろうか、はじめに水を汲んだ壜をその穴に沈める。壜の中の水面が1cm、氷の上に位置している。この壜は、スライドショーに写っているそれと同じ形状のものである。
この氷と壜が融合した状態を、ヒグマはカメラで写す。上部の映像はこの写真になるのかと思いきや、インスタレーションのリアルタイムとなる。ヒグマは釘を外していく。7つに至ると垂直に吊るされた竹を揺るがし、釘がぶつかる音を発生させる。
スライドショーは終わり、上の映像に氷と壜の融合の状態が瞬時に写り、潰えていく。闇が訪れ、50分の公演は終了する。

映像パラダイムシフトVol.3より

公演終了後、ヒグマは今回「行為と時間軸」を意識したと話す。《映像パラダイム》のブログ(8月10日)を読むと、「センサーを介してコンピュータを介在させれば、インタラクティブな遊びは山ほど出来る。嗅覚、視覚、触覚、味覚、等々を微妙に感知するセンサーを開発すれば事はたりる。でもそんなことではなかった。カラダの全部がセンサーの役割をしていた」と記している。
氷と水、写真と映像、リアルタイムと録画、光が当たる氷と当たらない氷、光と闇、リアルタイム映像と実像等、様々な二項対立が公演中に存在し、それぞれが変容しては定着してゆく。この転換の根底に「行為」があるとすれば、『越後妻有アートトリエンナーレ2006』の写真、今回の公演中に撮った写真、これから写すであろう写真と、《「うるおったあとで」》、即ち全てが完結した後に「時間軸」が生まれるといった、時間感覚の錯乱が認められる。
この混乱は公演といった特別な場所に存在するのではなく、日常の生活においても暫し訪れる。記憶違いや見間違えを具体的に記す必要はないだろう。コンピュータの発達により全てが万能になったと思われる現代社会であるが、ヒグマがブログで指摘する通り、コンピュータのセンサーがなくとも人間のカラダ全てがその役割を果たしている。人間だから混乱するのであろうか?それよりもここで重要なのは、「何を」感知するのかといった問題であろう。
ヒグマは、スクリーンといった限定される視覚要素に自己を閉じ込めようとする作業を行なおうとしない。写される自己と映される自己のタイムラグを埋めようという仕事では、決してないのだ。人間は「映像」自体を視覚によって正確に認識することはできない。なぜなら脳を通過し、自分が見たい「ヴィジョン」を選び取っているからだ。全てを客観視した「リアリズム」は存在しない。それは神の視線である。人間が主観から逃れることは不可能なのだ。ヒグマはヒグマでありながらも、ヒグマでない。その姿を見ている私達は「神の視線」を持ち合わせていない。するとヒグマは私たちなのか。私達は私達でありながらも、ヒグマになる。しかしヒグマは私達ではないし、私達はヒグマでも私達でもないという錯覚に見舞われる。行為と時間軸を除外しながらも含みつつあるこのような混乱が起こる余地にこそ、この公演の意義が隠されているのではないだろうか。

照明:坂本明浩
撮影:川上直行