ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.33

Visual Paradigm shif Vol.33 of Haruo Higum

映像を紗幕の様々な箇所に投影

2011年10月8日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:スト・モコス sto-mocs

映像パラダイムシフトVol.33より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台には上から見て菱形に紗幕が張られ、様々な楽器が床に置かれている。ヒグマは客席前方に位置する。暗転後、ピンクのグリッドが紗幕に投影される。映像は紗幕を突き抜け、後方壁面に到達している。Sto-mocsの二人が紗幕の中で木琴をマレットで叩くと、静謐な音が流れる。
永田砂知子はバスドラを重く叩く。紗幕上段に、約半分が影に覆われ認識できないモノクロ写真が投影される。右上から左下へ緑のライトが投射され、紗幕に斑の模様を形作る。ヒグマは写真を投影し続ける。左にずらした映像は青と黒の矩形が画面を遮り、奥では山形と拡散するイメージのCGが投影されている。
永田はヘッドではなく持ち手で鋭く、永井朋生は持続的に木琴を叩き続ける。映像は波の実写と色面のCGが二重投影される。ヒグマはプロジェクターの位置を左右にずらし、映像を紗幕の様々な箇所に投影する。
永田はバスドラを、永井はシンバルを擦り、切り裂くような音を発生させていく。上部の写真は、影が取り払われても認識することができない。二人はバスドラ、シンバルをそれぞれ叩き、持続を生み出していく。映像は鮮明な実写の川となる。
ヒグマは上へ上へと映像を動かしていく。二人は木片で鐘の円周を擦り、倍音を発生させていく。木村愛子が左側から流れる映像のプロジェクター口にネックレスを翳し、微細な影を生み出していく。即ち、三つの映像が紗幕に投じられていることになる。
永田が生み出す持続音に、永井はパーカッション音を埋め込んでいく。動かない写真が動く紗幕の表面に投じられると動画のように見える。モノクロ写真のテクスチャが浮かび上がるのだ。ヒグマがプロジェクターを動かすと、写真は更に生命力を与えられる。
永田は鈴を鳴らしながら紗幕の間を通り抜けていく。持続する音のハウリングが、心地よく響き渡る。永田はベルを、永井は鉢の円周を木片で擦りながら紗幕の間をさ迷う。映像のグリッドは燃え上がる炎と化し、マネキンの写真の高速スライドに変化する。
紗幕上段には円のCGが、下段は円、水、回転する球体のCGが投影される。二人は木琴を規則的に、ミニマルに叩き続ける。上段の波の実写にグリッドが踊る。ヒグマが下段の映像を動かすと水蒸気のような自然物の営みを感じさせるCGとなる。
下段の映像は、立体が高速移動するCGとなる。ヒグマが下段右の映像を落とすと、音が沈黙する。波紋的CGを投影する左の映像に、木村が指を翳す。再びヒグマの映像と音は踊りだす。点滅するモノクロのグリッドと持続する打撃音。
ヒグマは交差点のカラー実写を投影する。シンボルにならず、光景と化している。それはスピード感があるCG、泡が沸き立つようなCGと変化していく。左の映像は矩形のCGと実写の波が重なる。
二人は床に座り、ボウルを叩く。映像はグリッドと波が交差し、マーブル状のCGが折り重なる。二人は速度を上げていく。映像と共に演奏が止まり、65分の公演は終了する。

映像パラダイムシフトVol.33より

静謐でミニマルな音環境の中で、ヒグマの映像が様々に展開した。まるで映像が音階を生み出し、音楽が映画のような複製物を創出したように感じた。それほどまでにSto-mocsが編み出す音楽は的確で明快、ミニマルな様相を呈していた。
しかしここで聴くことの出来た音楽は、音楽の分野で言う「ミニマル」つまり繰り返しではなく、美術の分野で言う「ミニマル」であり、最小単位で構成されている。ミニマル音楽が持つ差異と反復的要素は一切なく、ミニマル美術が見せる単位としての全体が見渡せる演奏となっていたのである。
それに対して多様に展開したヒグマの映像は交響曲的色彩を与えると共に、「見える」ことの不可思議さを教えてくれたのだった。「見える」ことと「認識」することは違う。それは「止まる」ことと「動く」ことの同一と共鳴するのだ。普段より荒い紗幕に写真が舐めるように動くと、固定されているはずの写真とCGや実写といった動画の区別がつかなくなるのだ。
これは芸術上最も根本的な問題に差し掛かる。絵画や写真は留まり、ダンスや映像は一過性である。このような発想は絵画の不滅性の名残であるということが出来るであろう。神のための油彩は戦争画に結びついた。現代美術はこのような近代主義を超克する為に生まれてきたことを、改めてヒグマの映像が知らしめてくれるのだ。
また、ヒグマが映し出す写真や映像の内容の意味を考えると、ヒグマは意味のない引用をしないことが分かる。意味や象徴性、形象性も失い、ただそこに感覚的に映し出されるヴィジョンは、ヒグマという個人を超越し、見る者との相互関係の中で成り立つのだ。
それは「引用」、「感覚」といった現代美術の手法から既に食み出しているということが出来る。複雑化した現代美術は情報というコミュニケーションを脱し、「伝達」といったことを問うのではなく、直接的な伝達を果たさなければならない。ヒグマの芸術には、その予兆が示されている。

照明:早川誠司
撮影:坂田洋一