ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.38

Visual Paradigm shif Vol.38 of Haruo Higum

地球儀を開いていく

2012年3月22日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:添光(ヴァイオリン)

映像パラダイムシフトVol.38より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台中央には紙に載った地球儀が置かれている。左には半透明の布が被された台座が据え置かれ、上にはヴァイオリンの弓が乗せられている。暗転すると公演が始まる。客席前方に座っていたヒグマは立ち上がり、小型カメラのスイッチを入れ床を映して立ち尽くす。
とらえられた映像が後方壁面を覆い尽くし、ノイズ音が満ち溢れる。ヒグマは前方へ歩み、小型のカセットレコーダを地球儀の横に置きカメラでとらえる。自身の影が映像を遮るが気にしない。ヒグマが見上げると青い光が地球儀を照らす。
ヒグマは前へにじり寄り、立ち止まっては後方壁面に近づき右手を掲げていく。ヒグマはカメラを自らの顔へ向け、ゆっくりとこちらへ振り向く。屈み、地球儀をとらえ、人工衛星のようにカメラを動かし、その表面をなぞっていく。
ヒグマはカメラを自身の脇に置き、地球儀を開いていく。その中には丸めた紙が入っている。ヒグマは無尽にある紙を取り出しては広げ、広げられた紙は地球儀を取り巻いていく。一枚の丸められた紙から透明な瓶が出てくる。ヒグマはカメラに映るように瓶を床に置き、元の位置に戻ってカメラのスイッチを切り、映像を閉じて座る。
再び映像が投じられる。海岸を歩むヒグマのカラーの実写である。映像の中でヒグマは海の水を採取している。瓶を背景とした写真がクローズアップされては消えていく。再びヒグマが海岸を歩む映像になると、客席にいた添光が口笛を吹きヴァイオリンの弦を指で直接弾く。
映像の中で瓶は海に洗われる。添光はギターのようにヴァイオリンを前に構えて演奏する。映像はカラーの球体のCGへ変化する。床に斑の照明が映り込む。添光はリズムを形成していく。浜辺をさ迷う添光の映像が投じられる。
実際の添光は台座に座り、ピッチカートを織り交ぜた弓弾きを行う。暗い画面の下部に波が流れ、上部に文様のCGが投影される映像に変化する。文様は魚のような形を形成しては分離する。添光は演奏のテンポを上げていく。そして、波打つような弓弾きを聴かせる。
映像には、森の写真とペン画の歯車が交差し、拡大しては収縮し、色面、孔雀の羽のようなCGが重なっていく。添光は隈なく持続する演奏を続ける。月、若しくは太陽を見上げるようなCGの映像に変化する。添光はスラーを多用する。
魚にも植物にも見えるCGから、カラーの波の実写へ映像は変化する。瓶が波に消されていく。それに合わせるような、静謐で深遠な音を添光は生み出す。ヒグマの顔写真、球体のイメージのCG、樹木の写真と、映像は目まぐるしく展開する。
それに対して添光は、大きく広いボーイングを施す。発生した倍音を利用して、添光は音を反復させていく。映像は再度、海に遊ばれる瓶と化す。添光は弓を置き右手で弦を弾き、左手でヴァイオリンの底を叩く奏法を繰り返すと暗転する。50分の公演であった。

映像パラダイムシフトVol.38より

アフタートークでヒグマは今回の公演を説明する。東北へ行くチャンスがなかったので、九十九里浜で撮影したこと、その際、添光も同行したこと、九十九里浜の海で添光が感じたことを、ここでそのまま演奏して貰ったという。
感覚と感触、この曖昧模糊とした存在を添光はそのまま演奏として実行した。それは実感を一度考察した上で作曲した演奏とは異なり、直接にこの場に立ち会った者へ向かって行ったのだった。この直接の行動こそヒグマが主眼としているのであり、そこに立ち現れた瞬間に誠実な美しさが存在した。
ヒグマの映像もまた、同じ意図が込められている。ヒグマは自らを徹底的に客観化し、自らを起こすパフォーマンスと映像そのものと映像を投影する姿を融合させた。自らの顔を壁面に映し出すことは一つの肖像画を描くことに匹敵する。A・デューラーの自画像にはキリストの姿が込められている。ここにはデューラーが自らをキリストに擬えたのではなく、中世と近代が移り変わっていく時代を描ききったのだ。ヒグマもまた、自らの自画像と現代の天変地異を重ねたのであった。
地球が破裂し、タブララサの状態に陥り、それでも封印された水が登場する場面に陳腐な物語を発見するよりも、見る者は素直に現象として受け入れる必要があるのではないだろうか。実際にも映像にも登場する瓶は、ヒグマの作品に度重なって登場する水と光のテーマである。ここにヒグマは過去の自己と現在の自己、未来の自己すらも並列に込めたのであった。
人間は記憶を有するため、過去を顧みることと同時に未来を引き寄せることが出来る。眠りから目覚め目的地に辿り着くのは記憶という装置を使いながらもある程度の未来を約束しているのである。この未来に予定不調和な困難が生じたとしても、芸術が持つ記憶を忘却する作用を用いれば容易に乗り越えることが可能なのだ。
この記憶を甘受しながらも破棄するという芸術の力を、この公演が思い出させてくれたのであった。そして私は再びこの記憶を喪失するのだと予感している。

照明:早川誠司
撮影:坂田洋一