「ボディーサイズと映像の記憶」空気をけずる
2008年9月30日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
二本の柱に二枚の紗幕が天井から床にかけて隈なく伸びている。50cm四方の箱がつ、11.5×16.5cmの紙が束になって箱の上に置かれている。端に1.5m程の凧糸がつけられた同じサイズの紙が12枚、床に散乱している。
上下に連なる二枚組の写真が紗幕に投影され、公演が始まる。蝉の声のような、夏を連想させる電子音が鳴り響く。
写真は上が猫、犬、下は稲、小屋、飛沫と変化する。上の写真の下部には、常に波の動画が被さっている。高速で回転しているように見える球体が上下の境界線を無視して彷徨う。ヒグマは紗幕横で映像を見詰め、動かない。
全幕で木の根の写真が投影されるとヒグマは凧糸を両手一杯に二度計り、切る。端を結んで輪を作り、床に長方形に置く。二枚組の写真に変化する。ヒグマは小型カメラのコードを持って佇むと、広角レンズが床をとらえた映像が紗幕上に投影される。輪にした凧糸を足先と手先にかけ、小型カメラを右手で持ち、背中を床につけて足を広げる。カメラはヒグマの足を写す。
足を窄めるとカメラは遠くなる。広げれば近くなる。ヒグマは痙攣しながらも、必死に様々な角度からの撮影を試みる。力、均衡、呼吸、距離、制約。
ヒグマはカメラを箱の上に置き、自らの位置を代え、30cm程の針金を取り出し、ペンチによって変形させる。紗幕の映像は、二枚組から一枚の瀧の写真になる。針金をカメラの前におくと二枚組の写真に戻り、上はライブ映像、下は稲、人々、飛沫といった、生活の営みに水が溢れる写真となる。
下の写真が森林になると、ヒグマはその前を進む。森の中に吸い込まれる錯覚に見回れる。右手に持つカメラは足元を写す。左手は床の凧糸を拾う。上に伸ばすと、その糸の長さがヒグマの両手を広げた長さと同一であることに気づく。吊り上げられて裏返す作業は、思ったほど簡単ではない。ヒグマはこの行為を不自由に繰り返す。
紙は、写真だった。森林、瀧、祭、人々、木の根…、これまで紗幕に投影されたものばかりだ。見る者は、この写真の実物に目を投じることも、映像として映し出される姿を認識することも、その両者を選択することも許されている。そして、その写真がこれまで見たことがあると思い出すことも、初めて見るものだと主張することもできるのである。記憶とは何か。
写真とは機械が撮るものではなく、人間が写すものである。
紗幕に、上下の映像が投影される。下は、街の写真に波の動画が被さっている。上は高角レンズのライブため、床が球体に見える。人はイメージを見ているのか、想像しているのか。ヒグマの影が、モノクロの街の写真に溶け込む。
下の写真が漁港に代わると同時に、上の映像も据え置きのカメラが横から箱を中心に会場を移すものに変化する。下の映像が入れ子状に上に映り込む。ヒグマは紫の風船を膨らませては空気を抜きつつ、時間をかけて大きくしてゆく。風船の口を閉じ、大きく膨らんだその壁面を親指で擦って音を発生させる。ヒグマは下の映像にある回転する球体に、左手で持った風船の影を重ねる。その模様も、カメラはとらえている。球体は遠近感を出しながら自在に動くので、その大きさを揃えるためにヒグマは紗幕前で前後する。バランスを取るヒグマの右手の影が紗幕に入り込み、その動作の詳細がつかめる。
映像にあるCGの球体は、素早く回転しているように見えているに過ぎない。風船の影も、影という虚像のため正確に重なっているとはいえない。では、見えるとは何か。
風船の口に凧糸を括りつけると、上の映像は合わせ鏡のように無限連鎖したライブのヒグマを映す。ヒグマは両手を大きく広げ、凧糸を張り、風船を右手で翻し、前や上に叩く。フランジャーが利いた回転音が聴こえる。映像が止み、沈黙が訪れる。45分の公演は終了する。
公演後、ヒグマは今回の公演が新潟の夏祭りといわきの小名浜の写真を使用したため、題目を「いってみてみて」にしたと説明する。
旅をすること、移動すること、場所を代えること、それはwebやmailでは不可能な行為である。記録で残すことができても、自分で確かめなければ意味がない。しかし遠くに赴くこと、高速移動することは、従来足で移動する人間にとって、非常に不自然な行為である。science fictionではないが、人間が脳というイメージだけで存在すれば、どれだけ楽なことだろうか。ヒグマはそういった人類の夢を「否定」する。「否定」とまでいわなくとも、人間であるスタンスを崩そうとしない。
不自由に五体を動かし、不自由に凧糸を引いて写真を裏返す。人間は体という制約を常に身にまとっている。その制約の中で写真や映像をとらえ、他者に示す。その他者もまた、多大な制約を持ちながら作品に対峙する以外、術を持てないのだ。つまり完全な芸術作品を鑑賞することなど、不可能な出来事であることに気が付く。
私達はそれを前提に、芸術作品を見て、触れて、感じなければならない。そんな当たり前のことを、ヒグマはこの公演で教えてくれた。
公演後、ヒグマは今回の公演が新潟の夏祭りといわきの小名浜の写真を使用したため、題目を「いってみてみて」にしたと説明する。
旅をすること、移動すること、場所を代えること、それはwebやmailでは不可能な行為である。記録で残すことができても、自分で確かめなければ意味がない。しかし遠くに赴くこと、高速移動することは、従来足で移動する人間にとって、非常に不自然な行為である。science fictionではないが、人間が脳というイメージだけで存在すれば、どれだけ楽なことだろうか。ヒグマはそういった人類の夢を「否定」する。「否定」とまでいわなくとも、人間であるスタンスを崩そうとしない。
不自由に五体を動かし、不自由に凧糸を引いて写真を裏返す。人間は体という制約を常に身にまとっている。その制約の中で写真や映像をとらえ、他者に示す。その他者もまた、多大な制約を持ちながら作品に対峙する以外、術を持てないのだ。つまり完全な芸術作品を鑑賞することなど、不可能な出来事であることに気が付く。
私達はそれを前提に、芸術作品を見て、触れて、感じなければならない。そんな当たり前のことを、ヒグマはこの公演で教えてくれた。
照明:坂本明浩
撮影:川上直行