ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.48

Visual Paradigm shif Vol.48 of Haruo Higum

無限に広がっては消えていく

2013年2月27日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:河合孝治 (サウンドアーチスト)

映像パラダイムシフトVol.48より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台左奥には既製品の蚊帳が置かれている。ヒグマはその中にコントローラを用い、一方の映像をライブで動かす。一方の映像とは蚊帳を照らすプロジェクターからの光である。黒地に染色体のような白いグリッドが蠢く。他方の映像は、後方壁面に隈なく展開する。家屋内から色面が広がり頁を捲るように次の場面へと転換する。両者は微妙に重なり合う。
河合は右奥でパソコンを操り、今回のために作り出した音楽を、ライブで操作して変容させる。それはミュージックコンクレート、具体音楽とも訳されるような、電子音楽を含む様々な音源の集積を彷彿させる。しかし河合が生み出す音楽とは、記憶に残らぬように流れていく具体音楽とは反して、流れている音が記憶に留まり続ける特徴を持つ。
後方壁面の映像はパソコン、押入れ、電子レンジと次々に変わる。蚊帳は透過性が強いため、見る角度によっては四面のスクリーンとなる。水の滴る音、弦の音、電子音と折り重なる音は波の飛沫のみとなり、消滅するとホワイトノイズのみになる。後方壁面の映像は、町へ繰り出し、色面が広がり、頁が捲られる。
蚊帳に拡がる黒地に白のグリッドは、波にも見える。後方壁面には一度黒地に青のラインが広がるが、直ぐに町の光景へと転換する。そして黒地に原始生物が泳ぐようなCGへと化す。河合のホワイトノイズは、無限に広がっては消えていく。蚊帳には沸き立つようなCGが投じられる。終末を遂げるようなトランペット的電子音が響き渡る。
後方壁面に映る町並みは、東西という場所や70年代、2000年代といった時間が排され、如何様にも読み取ることが可能な風景が拡がっている。蚊帳には深海で漂う原始生物的CGが投じられ、河合の音は静謐さを保つ。後方壁面に部屋のパソコンの写真、パンを売るヨーロッパ人が投じられ、尚更に時間と空間の感覚が失われる。
静謐な持続音は沈黙を経て断片と化し、低い音程のホワイトノイズへ変化する。後方壁面に映るのは波止場である。蚊帳に映る原始生物的CGに変化はない。息吹きするような電子音が木霊し、後方壁面に映る建物は初期のモダン建築に見える。再び波止場に映像が戻ると、持続する電子音は上昇する印象を与える。
蚊帳に映る原始生物的CGと、後方壁面の写真の背景に位置する原始生物的CGが、全く異なる動きをしていることが徐々に理解できる。河合は地上に存在するあらゆる音、しない音、トーンクラスタ、ミニマルの探究ではない音を発し続けている。例えそれが琴や鼓動に感じるエレクロニクス音であっても、実体は存在しないのだ。
不確定なピアノ音を背景に後方壁面では、屋根に生えるテレビアンテナと空に漂う雲の映像が投じられる。古い看板が、全く郷愁を誘わない。ヒグマが旅をしているようにも感じられない。すると、風景が風景に見えなくなる。イメージの何を読み解けばいいのか。読み解く必要性さえ、失われていくのだ。
そこに物語を読み取ることも可能であり、禁忌されてもいない。見る者がヒグマの映像のあらゆる角度から自己を発見し、イメージすることによって作品は完結するのだ。蚊帳、後方壁面共に深海で漂う原始生物的CGとなる。複雑な電子音が響き渡る。この複雑さから何かを読み取る=聴き取ることを河合は我々に要求していないことも理解できる。

映像パラダイムシフトVol.48より

突如、二つの画面に0から9の数字が飛び交う。後方壁面の映像は壁に寄り掛かる人物、漣のような白と青がうねるCG、窓に立つ人物と素早く展開し、一つ一つの時間が剥奪されていく。持続し、途絶えることがないにも関わらず、音は刻々と変化を遂げている。それは描かれては消し去られるA・ジャコメッティの線のようだ。
音の質量が増す。数字が飛び交う中、後方壁面に黒地に青い円のCGが、時間をかけてクローズアップされていく。持続音は消失しては立ち現れる。数字は互いに擦れ違い、通り越し、跳ね返るという象徴的なシーンを形成する。後方壁面が青一色になると、擦れる弦の断片音が響き、ヒグマが初めて蚊帳から出て、48分の公演は終焉を遂げる。
アフタートークで、ヒグマは映像を先に渡して音楽を創ってきて貰うことは、映像パラダイムでは珍しい試みであると話した。同時にヒグマは河合の音をイメージしながら、映像を音のないところで編集したことを明かした。映像は緻密に編集しなくとも形になる=合ってしまう。そのため、今回はライブ映像というリアルタイムを敢えてなくしたという。
二者の中間に存在する想像力が、合致するか差異が生じるかが問題ではない。ここには想像と現実と言う二項対立を瓦解させる試みがなされているのである。実際にその場に居ながらも異なることを想像することは、日常でも頻繁にある。そこには既成概念だけではなく時間や空間、記憶という装置も携わっている。それらを無化し、未来を引き寄せるのが現代美術の役割であろう。

照明:早川誠司
撮影:坂田洋一