森の蛙眼的視線の実写映像と孔雀の羽
2013年6月24日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト: 姜泰煥 (カン・テーファン/サックス奏者)
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
舞台左側に、直径1m、幅15cm程のアクリル樹脂による円柱が、30cm位の高さの金属の脚を伴って展示されている。このオブジェには僅かな水が中に入っており、巨大な点滴器具が真上に吊るされ、毎15秒に一滴の水をオブジェに零していく。舞台右にある平台には、テナーサックスが一台置かれている。
カンは平台に胡坐をかいて座りサックスを抱え、演奏を行うと公演が始まる。カンは倍音を多く含んだ持続音を、循環呼吸を用いて綿々と続けていく。通低音と共にハーモニクスによる微細な旋律を編み出していく。ヒグマは、後方壁面右側に仄暗い円の映像を投影する。揺らめく影が自然物かと見紛う程の有機的なCGである。
円の映像はモノクロから五色へ変化し、森の蛙眼的視線の実写映像と孔雀の羽のようなCGの二重写しに入れ替えられる。カンの音は循環しながら、高音へと重心を移していく。後方壁面と隣り合う左壁面に揺らめくのは映像ではなく、オブジェに反射する影である。
後方壁面に映る映像は、恰も水面を接写しているかのような映像、若しくは雪の表面をなぞっているように見える視線に変化する。カンの音は持続のままに、高音を探り続け突如沈黙する。オブジェに光が当たると、カンの顔へ光が反射する。カンは循環呼吸によるパルスを生み出していく。
後方壁面の映像は、波打ち際からみた連なる波の実写から雲に包まれた月の実写へと転換する。独立しない一つ一つの旋律が、その都度に異なるパルスを付随して蠢き続ける。後方壁面には色面のCGが渦を巻き、黒地に花火が飛び交うようなCGへ移ろう。
直視、それは直観でも近視でもなく、心の状態下の湖の中で犇く金魚の鱗が放つ光の乱反射をイメージさせる映像が流れ続ける。それは実写かCGかが判断不可能である。それと同様に、旋律とリズムが失われては再生するカンの音が私達に押し寄せてくる。燃え上がる炎が揺らめき、波が鼓動する映像に対して深く、重く、細かい音が連続する。
ヒグマは左壁面に向かって一台のプロジェクターの蓋を開く。黒地に白、赤の矩形が生き物のように千切れては連鎖されるCGを投影させる。後方壁面にも同じ映像が投影される。カンの音が映像的になり、煌きのように二つの映像の点を往復している錯覚を与える。黒地に白い木が燃えているようにCGは、赤、青と多くの色彩を含んでいく。
カンが続ける音=口吻は、恐らく人間の耳では知覚することが不可能である。人間では聴こえない周波数を数多く孕んでいる。そのため私達は耳で聴くのではなく、皮膚で感じ、音を呼吸し、音という存在に対峙することを余儀なくされるのだ。水滴は、行われている事象を無視して落ちてくる。否、水滴こそが、この空間を支配し、同化しているのだ。
喉に手を入れて内臓を弄るような音が続く。カンが目の前に居るのに、形相が失われ、姿が見えないように感じる。魚、烏賊、蛙にさえ分別できるCGが潰え、泉のように沸き立つCGにとって代わる。滞りなく振幅するカンの音は、空間自体に振動を与えていくのだ。
カンは初めて意識を変え、緩やかなトリルを持続させつつ変化させる。壁面に映し出される映像は、イラストかCGか判別がつかず、二重に投影されている。ここにあるのは現象ではなく、記憶の発露であろう。私達は過去へ誘われる。白、赤、緑の造形的CGは投影される。カンはタンギングを細かくし、複雑なリズムを創造する。
ヒグマは映像を止めたりコマ送りにしたりとコントロールを続ける。宇宙空間にゾウリムシのような形体が飛び交うCGが投影される。カンはサックスのリードを二重にする、或いは交換する。オリエンタルな旋律が飛び交う。加工された実写の波の映像が流れる。会場と立ち会う者の体の隅々にまで音は行き渡る。
E・フッサールのいうエポケされた持続音と畳み掛けるようなCGは、伝達することへの変化ではなく、留まらないことにこそその特徴を語ることができる。多色に転換するヒグマの映像は、影を含む光の動向そのものである。同時多発し、決して同調しないにも関わらず、時間と空間がシンクロしていく。
カンはアルペジオを積み上げ、映像もまた楕円の集積が点滅する。原始生命的形体のCGが朽ち果てながら飛び交う。カンは唯一つの音を複数に派生させる。強い振幅音はカンの体から離れると緩やかに変貌を遂げる。モノクロの折れ線グラフのような横波のCGが舞台を横切り、赤い波が加わっていく。
カンの程よい会話のような音は我々を刺激する。加工された現実の視点、ボールペンの染み、闇を接写する写真とヒグマは目まぐるしく映像を変えていく。終わる筈のない約束の時間がやってくる。ヒグマは左壁面の映像を閉じ、後方の映像は壁面に吸い込まれる。闇の中で、カンのトリルが止まる。55分の公演であった。
アフタートークでカンは映像とのコラボレーションが初であったことを明かし、映像に合わせて演奏したことを語った。ベテランのカンの体に仕舞われていた音が、再び現前化した瞬間であったのだった。
照明:早川誠司
撮影:坂田洋一