ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.51

Visual Paradigm shif Vol.51 of Haruo Higum

水面と水中のすれすれのところに視点を置く

2013年7月29日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト: 千葉瑠依子(身体表現)

映像パラダイムシフトVol.51より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

幅2m程の養生シートが2枚、僅かに折り重なって天井から床へ伸びている。シートは床にも広く展開し、舞台の横幅一杯にまで拡がっている。舞台右奥に50cm程の平台が用意され、コントローラとプロジェクターが準備されている。付近の壁面には下から2m程の高さにプロジェクターが設置され、平台の前には小型カメラが置かれている。
ヒグマ春夫はwebで以下のように語る。「…養生シートは薄いビニールの素材で出来ていて、映像を映すと皮膜や水膜を連想させます。水膜は泳いでいる時に見たことのある光景で、水面と水中のすれすれのところに視点を置いた時に感じた世界です。皮膜も水膜も私には生々しさを感じ、見えない向こうの世界を心眼させるフイルターのようです。このフイルターは震災以後重要なファクターになって作品に現れてきます。…」
これから養生シートを膜=幕の意味を込めて「マク」と表示する。ヒグマが小型カメラを外へ持って行き、暗転することによって開演する。ヒグマが壁面のプロジェクターを開けると、マクの上部に光と影しか認識できない映像が投影される。川のせせらぎ、虫の声といった夏独特の雰囲気の実音がスピーカーから流れてくる。
千葉瑠依子が左手に小型カメラを持って、扉から入ってくる。千葉は足裏をたっぷりと床につけ、膝を曲げながら中央へ進んでいく。曲げた肘、肩の巡りは日常とかけ離れた、一つの新たなフォルムを提案している。千葉の動きを追うと、映像と共通する。小型カメラは赤外線カメラであり、千葉は自らをスケッチしていることになる。
背を反り、首を擡げ、腰を引き、両手を頭上に掲げる。映し取られた右手はレンズを経由しスクリーンで闇と化す。千葉は2枚のマクの狭間に身を沈めていく。大きく開いた口の中を映しても、上部に出力される映像では輝く光となる。川のせせらぎの音のままなのに、雨が枝垂れる音に変化したように感じる。
上部の映像は光と闇のままである。辛うじて指先であると認識したとしても、千葉はマクの背後にいて見えない。つまり、此処に居ない。映像を顔であると見ようとすれば顔に見えるが、顔として見ようとしなければ人間のフォルムは失われる。何も代わっていないのに代わっていくと此処にいる者が勝手に解釈するのだ。
千葉は体を限りなく遠い地点に保ちながら、唄を歌う。開始から15分後、ヒグマは机のプロジェクターを開くとマクの下部に映像が投影される。青地に白いラインが横切る。色は黒にピンク、再び青と白へ変化する。この映像もまた上部と同様、マクによって認識不可能だが、ヒグマのwebによるとCGではなく森羅万象をエフェクト加工した映像だと言う。

映像パラダイムシフトVol.51より

千葉はカメラを天井、水平に向けて、血脈のような水墨の世界を映像として実現させ、カメラを上に向けて平台の前に置く。固定されたカメラが映し出す天井の映像は、まるでエッチングのような抽象性を帯びている。それに対して千葉は、自らであることを固持するように新たなフォルムを形成していくように見える。
ヒグマは小型カメラを引き寄せ、水平にして千葉をとらえ据え置く。上部のマクに映る千葉は、発光しているように感じる。千葉がマクを皮膜にする瞬間があったとしても、千葉は千葉であることに拘りがなくとも千葉であることが立証されてしまう。左右のオレンジのライトが強く灯る。千葉はマクから抜け出てくる。
腰を落とし、床のマクを摘まんで山を形成する。青いライトがその姿を照らす。千葉は腰を屈めて山を発生させながら、床のマクを進む。ないところからものをうみだしていくのだ。立ち上がり、自ら生み出した山を見詰め、右足で一気に踏みつける。再び、山を生み出す作業を繰り返す。
白、橙、桃、青、紫、緑、赤の照明がマクと千葉を同化させる。千葉は中央で上体を寝かせ、立てた爪先による歩行を肘の動きによって生み出す。それは、積み上げる山と正反対の、落下するイメージを喚起させる。照明が全て落ち、千葉はマクを螺旋状に体に巻き付け、床に到達する。
千葉はマクという物質の束縛から抜け出し、茫洋とした表情と視線を客席に向け、体からはリズムが滲み出てくる。唸り声をあげ自己を消滅に導いても、子守唄を歌い此岸と彼岸を超えようとしても、千葉は千葉を許すことはしない。千葉は床のマクを引き寄せ、歩む。自己の意識と自己の人生が形成するフォルムの相違を認識し、明瞭になる瞬時のムーヴであった。
闇が訪れ、一時間の公演は終了する。全て即興であることがアフタートークで明かされる。早川誠司による照明は今回、特に戦闘的であり、静謐な世界の中に光と映像と肉体が迸る機運となった。
千葉が自己を超えていないというのではない。千葉はまだ自己に還り切れていないだけの話だ。千葉は自らを知らない。ヒグマの映像と音楽に変化は起きない。即ち、映像は千葉のことを見守っていた。守ることこそ最大の攻撃であることを、この場でヒグマは教えてくれた。

照明:早川誠司
撮影:Bozzo