拡大された映像の速度を操作する
2014年1月22日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:yoya/ヨウヤ (ギリシャギター奏者)
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
舞台右前方にアンプとエフェクターが置かれている。ヒグマの映像コントローラは客席右に位置し、右奥から後方壁面にプロジェクターが向けられている。暗転を経て映像が投じられると、公演が始まる。
後方壁面一杯に、5×5の25に分割された映像が広がる。一つ一つは三重の入れ子構造になっていて、ヒグマがこれまで撮影し加工し上映した様々な国の風景、ダンス、パフォーマンスとCGが個別に編集されている。莫大な量の情報を、見る者は認識できない。
分割されたひとコマが拡大され、映像全体を横切っていっても、下になる映像は潰えることなく、二重に投影されている。加工された波の音が会場に轟く。ヒグマはコントローラで、拡大された映像の速度を操作する。
持続的電子音が広がる。三重の入れ子の一番外側は、移動する車内から撮影された映像であるため、全ての映像は時間軸が異なりながらも左から右へ流れ続ける。再び一つのコマが拡大され、移動していく。
オリエントな旋律が響き渡り、ギリシャギターを携え民族衣装に身を包んだyoyaが、両手を合わせた祈りの姿勢で舞台を巡る。球のCGと実写の波と街の写真、原始生命体的CG、影を切り抜いたフレーム内に高速スライドする街の写真など、映像は絶え間なく変化する。
yoyaはギターのストロークを続けると、倍音がタンブーラのような響きを放つ。単音を交えながらも緩やかなストロークでリズムを形成していく。早川誠司による青い照明はyoyaを染めていくと共に映像にも投じられ、より映像の青みが増していく。
yoyaが鳴らすギターは純和音であり、共鳴絃が和音を拡大し、エフェクトされてアンプから流れてくるノイジーな音と生音が複雑に交じり合う。下降された実写の波の映像が画面一杯に広がり、音と映像の実体と虚構が一体となる。
鐘の音と心臓の鼓動を印象させる音が、スピーカーから聴こえてくる。yoyaは演奏を止め、その場で回り始める。繰り返し動き続ける映像は、過去の写真が日に照らされて焼けるのではなく、青写真がセピアに染まるといった時間の逆回転を彷彿させる。
スピーカーから、パーカッション音が押し寄せてくる。yoyaはそのリズムに合わせて足を踏む。ギターの細かいストロークを繰り返し、舞台を歩き巡っていく。映像には行進する人々が映し出される。それがデモなのか戦勝行進なのか、判断出来ない。
yoyaは右手で顔を覆い、演奏よりも身振りで物語性を強調する。映像に映り込んでいるM・デュシャンとダンスがイメージとして入れ替わる。酸素ボンベを携え水中を移動するような音がスピーカーから流れる。
yoyaは足を踏み鳴らし、リズミックなストロークを展開する。映像は、揺れるCGが印象的だ。yoyaはリズムを崩し、高音を強く揺さぶる。全体的に、円をモチーフとしているような映像となる。
yoyaは小刻みに歩き回り、映像と異なるストーリーを流し込んでいるように見える。腰を屈め、両手を前に差し出す姿勢で歩行を続ける。ドローン音がスピーカーから流れると、yoyaは差し伸べた掌を開いた口の前に翳す。
yoyaは右手の人差し指を立て、水平にすると右奥に消える。ドローン音が声明に聴こえてくる。床を斑な照明が照らす。25分割された映像が、淡々と流れる。足音と、鳥の鳴き声のような音が聞こえる。音楽が止むと映像が閉じられ、45分の公演は終了する。
それによって、全体として滲み出す時空が発生したのだった。
アフタートークで、ヒグマは映像のモチーフについて説明する。【今日、移動する多くの者はスマートフォンを見ている。その者達は情報を得ているのか、発信しているのか。すると、映像の情報とは何かが問われてくる。
80年代から今日に撮り溜めた映像をコンピュータのハードディスクに入れてデジタルに変換する作業を現在、進めている。映像が必要だから撮影した。つまり情報と化した。そのままで終らずに、今日に「再生」するとどうなるだろうか。
自分が映像で何かをやろうとした時と異なり、今日に「再生」ではない見解が出来るのではないかという実験である】と言う。ヒグマは映像の単なる撮影、投影という繰り返しでない側面を引き出そうとしているのだ。
その試みは見事に実践された。見る者は映像の全てを見渡すことが出来ず、自己に都合のいいシーンを選択する。それは「見極める」のではなく自己が「撮影/再生」を繰り返すことになる。リアリズムは存在しない。この落とし穴を掘り下げている。
映像の「文脈」は、常にリテラシーとして強調される。しかし現代芸術とは文脈を放棄し移り変わる「いま、ここ」を再編させる使命があるのだから、ヒグマの映像が現代芸術の当たり前の姿であり、リテラシーという方法が前近代的であることが暴かれる。
yoyaは、スピーカーから流れる音も指定した。演奏に撤するのではなく、身振り、選曲という映像以外の空間を形成し、総体としての公演を目指した感がある。それはギター奏者としての自己を取捨し、映像と向き合うための所作としては天晴れな選択であった。
それによって、全体として滲み出す時空が発生したのだった。
照明:早川誠司
撮影:坂田洋一