ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.66 my portfolio


「柔らかい皮膜」差異への眼差し

日時:2015年5月25日(月)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール1F
   (東京都世田谷区松原2-43-11)
出演:ヒグマ春夫(映像作家、美術家|performance)
   工藤響子(dancer)、小松 睦(dancer)
照明:早川誠司
協力:キッド・アイラック・アート・ホール
撮影:坂田洋一

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報告:宮田徹也

(日本近代美術思想史研究)

舞台は、手前2m位までが半透明の養生シートによるオブジェによってすっぽりと覆われている。オブジェは正に皮膜であり、客席から見える手前と見えない奥の空間を隔てている。白い衣装を身に纏った小松睦と工藤響子がオブジェの後ろに回りこんで向き合って座り、ヒグマ春夫が客席前方右の席に着くと暗転し、公演が始まる。 オブジェの真中と右上に、プロジェクターの光が零れる。森の中を歩んでいくような音が流れる。真中の映像は、赤外線カメラによる場内のライブ映像である。ヒグマは赤外線カメラを持ってオブジェの後ろへ回り込んでいく。二つの映像は不鮮明である。オブジェを写してオブジェに投影するので、視覚の不確かさが浮彫となる。 真中に誰かの指が映る。ヒグマか、小松か、工藤かであることは間違いない。右上のライブは床に置かれたカメラからの視線である。後方のライトが点灯し、三者の影がオブジェに薄らと映り込む。シルエットからして、工藤らしき人体が懐中電灯を手に持って振っていることが窺える。後方のライトは強くなっても直ぐ消えてしまう。 真中の映像は床を映し、右上の映像は天井を捕えている。恐らく小松がオブジェの内部から外へ向かって体を押し付けている。ヒグマは定位置に戻り、真中の映像を、公園を歩くモノクロの録画に切り替える。右上のライブはそのままである。吸い込まれるような電子音が響き渡る。小松と工藤は床に身を置いている様子である。 床に身を置く二人の振幅が増し、やがて沈黙する。真中の映像が、森で踊る小松のカラー動画となる。実体の小松もオブジェの内部で踊り始める。工藤らしきがオブジェの後方で赤外線カメラを操作し、その映像が右上に投影される。映像と実体は、時にはリンクし、同じ振付、若しくはポージングが重なっては離れていく。 実体の小松が手を伸ばし、オブジェに映る自らの映像に触れる。緑のライトが会場全体を照らしては、消える。小松は蹲り動かない。しかし赤外線カメラは小松の微細な動作を捕らえ、オブジェに投影する。立ち上がった小松はオブジェを波立たせる。映像の小松は木に登り、項垂れる。 持続する電子音が流れると真中の映像はキッドのホールでカラー録画された工藤のダンスに変化する。実体の工藤はオブジェの下を潜り抜けて前に出てきては戻っていく。後方から点滅するライトが、そのような工藤の存在を無化する。柔らかい小松のダンスと対照的に工藤は固く、強く踊る。遂、先ほど録画されたような新鮮さが残る。 実体の工藤は映像と同じように、膝を伸ばした四足で前に出てくる。右手にライトを持ち、前から後方へ目掛けてオブジェを押す。小松の足が見えると、工藤はするりとオブジェの後方へ消える。オブジェの裏で歩む工藤の表情を小松が赤外線カメラで撮影し、オブジェの右上に投影する。 映像の工藤は激しく跳躍し、実体の工藤はオブジェを内側から外側へ押し、倒れる。打ち付けるような電子音が響き渡る。立ち上がった工藤はジャンプを繰り返し、オブジェの上部を掴もうとする。諦めた工藤はオブジェの下に潜る。映像の工藤は、四足で背中に椅子を乗せて移動している。 右上のライブは、オブジェ奥での出来事を見詰めている。小松と工藤はオブジェの後方からオブジェを二人の膝付近まで引き上げ、手を離す。映像が潰え、点滅する照明が潰えると闇の世界が広がり、一時間の公演は終了する。 アフタートークでヒグマは、本公演は今回のオブジェを用いた作品をこれからも発表し続けるその第一弾の公演であることを宣言する。二人の映像は各16分であり、二人は予め映像とオブジェを見ることなく今回の公演に臨んだことが明かされる。 トーク終了後、明るい照明の中でオブジェに回り込んでみると、オブジェは幅1m程の閉じられた空間であり、送風機によって波立つことが理解できた。ヒグマ、小松、工藤はオブジェの中と表、裏を巧みに使って複雑な公演をしたことになる。 小松か工藤かといった固有性ではなく、実体と映像の匿名性を狙った公演ではないかと見ている最中に思ったが、終わってみればそういう訳でもあるまい。

ヒグマはパンフレットで「所謂「内と外」「表と裏」などの違いを同時に表そうとすることで、その中間領域を表出しようとした試みである」と書いている。絵画のシュポール/シュルファスを思い出す。 支持体と表面の中間にあるものは何か。そこに実体を投じることが不可能だから映像だと論じるのは、余りにも安易である。映像もまた、虚構ではなく実体であることを前提にすれば、虚構であるイメージとは出演者も含めた見る者が勝手に生み出す現象であることが納得される。 ヒグマはオブジェをプログラムで「器」と呼んでいる。空っぽの器を満たすのはそういった見る者の視線ではないだろうか。我々が器の中に様々な虚構を投じていくことによって、虚構が実体に変容するのではないだろうか。


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北里義之・批評

チラシなどの前情報では、第一部で、ヒグマ春夫による映像パフォーマンス<「柔らかい皮膜」差異への眼差し>がおこなわれ、第二部では、工藤響子(キッドの1Fホールで踊る)と小松睦(公園らしき屋外で踊る)のダンスを撮影した二本の映像が上映される旨が報じられていた。しかし当日、構成は大幅に変更され、二部で上映が予定されていた映像は、背後から扇風機によって送りこまれた風にふくれあがり、観客の眼前でゆれながら滝壺のようにそそりたつ巨大なビニールの皮膜のうえに投影される映像のひとつとして一部にくりこまれただけでなく、映像の主人公となったダンサーもまた、白い衣装を着用してビニールの内側/裏側にはいり、チカチカと点滅する懐中電灯をともしたり、ぼんやりとした動きをしたり、照明を担当した早川誠司にタイミングがまかされている(らしい)ライトに背後から照らされ、半透明の皮膜に影を投影するというパフォーマンスがおこなわれた。ひとりのダンサーは、後半で、皮膜の下手端から這うように出てくると、ステージ中央で皮膜の内側に這い戻ったりしたが、身体はあくまでも作品の一部として感じられるもので、ダンスによって映像作品とコラボする “別の身体” とは考えられていないようだった。少なくとも、そのような身体の立ち方はしていなかった。
 皮膜の内側にダンサーの身体を置くという設定は、2008年にスタートした過去のパラダイム公演にも似たケースがあることが予想されるが、直近の例では、端的に、<ACKid2015>に参加した宮保恵の公演(2015年4月27日)の再引用といえるものである。宮保の公演は、最終的に、ダンサーが皮膜を破って “誕生” する映像と身体の「コラボ」だったが、小松睦と工藤響子は、(これから予定されている共演のなりゆきは予言できないものの、今回に限っていうなら)内側、外側から皮膜に触れる影を揺曳させることで、ダンスする身体をポジからネガへと移し替えていた。あるいは、公演冒頭、ヒグマ自身がカメラを携えて皮膜の内側に入り、観客席の背後のプロジェクターから “同時中継” で皮膜の内側の映像を投射したとき(一方通行的な内外のパースペクティヴを混乱させ、そこに “別の” 視覚経験を立ちあげようとする未見の実験装置だが、宮保公演ではダンサー自身がカメラを携帯した)に聞こえていた足音だとか、ダンサーふたりの映像が連続して上映される前、ヒグマが皮膜の外に出てきて、“同時中継” の画面をスイッチして映し出した道路上を移動していく風景などは、すでに宮保公演でも出現していたものである。これらのことは、“同時中継” に見えているもののなかにも、すでにたくさんの過去の記憶が混入していることを意味している。  そもそもの話、ここで表記している “同時中継” も、現在の時点を意味するものではなく、衛星放送のように、少しずれたタイミングで映像が投射され、観客が生な身体で見ている出来事との間でタイムラグを生じる近過去の引用といえるものである。つまりここでは、視覚のパースペクティヴが混乱させられると同時に、現在と過去の時制も、ひとつやふたつではなく、複雑に混乱させられているといえるだろう。当日配布されたパンフレットの解説には以下のように記されている。「柔らかい皮膜体のスクリーンは、大きな器である。その器にはまだ何も入ってはいない。映像を投影することや身体が関与することで器は満たされる。そんな空間に、演者や観客が立ち会うことで経験を実態化する。というのが今回のコンセプトである。もちろん映し出される映像や関与する身体のアプローチもキーワードになる。[中略]今回のパフォーマンス「柔らかい皮膜」は、ブヨブヨ・フワフワという視覚言語を用いた。いうまでもなくブヨブヨは視覚的な内部をあらわし、フワフワは視覚的な外部を表している。/所謂「内と外」「表と裏」などの違いを同時に表そうとすることで、その中間領域を表出しようとした試みである。」
 感覚できない「中間領域」を「実態化」する経験の可能性は、複数の映像を集める「柔らかい皮膜」の存在を前提にしている。正確にいえば、ここでは映像の物質的な土台を問うことが(隠れた)テーマとなっている。ブヨブヨ、フワフワする皮膜の存在──観客の視野をおおうように垂れ下がる半透明のビニールは、それ自身の透明性を条件とする通常のスクリーンにくらべれば、はるかに物質感にあふれたものだが、これまでのパラダイム公演におけるコラボからみれば、広い意味での平面の復活、イメージの前に観客を引き連れてくる絵画の伝統に回帰するもので、そのことがあるからこそ、皮膜の内部に身体を置くことで、実際には存在しないイメージの “裏側” を見せるという、アクロバチックな想像力を喚起する仕掛けが成立するように思われる。すなわち、新たな感覚の生成のため、ここで混乱させられているのは、観客の身体に内蔵された視覚の伝統と劇場構造ということになるだろう。解説文で触れながら書かれていないこと、それは先述した映像の時制という時間の要素だけでなく、「ブヨブヨ・フワフワ」というオノマトペを、視覚的な外部/内部の対立で説明しながら、そのすぐ近くで働いている触覚の存在である。皮膜が同時に皮膚であること、たちまちにして皮膚の感覚を触発してくること。半透明のビニールに触れるダンサーたちの身体、その指先や足先は、まさに皮膜を皮膚として感覚させるものだった。
 最後にもうひとつ触れておくべき再引用は、あらかじめ撮影されたダンサーの映像と生身のダンサーの共演という関係性の作り方だ。これは、昨年おこなわれた12日間の連続公演「精魂と映像とのコラボレーション2014」(9月24日~10月6日、明大前キッド5F)のコンセプトになっていたものである。今回の映像パラダイムシフト公演では、映像を介したダンサーの自己言及的パフォーマンスが目指されたわけではないので、ダンサーたちの動きは、皮膜に触れる手が映像の向こう側から伸びてきたり、半透明のビニールに誰とわかるほど顔が接近したりといった遊戯的なふるまいに限られていた。いくつもの過去作品を自己引用することで構成された映像パフォーマンス「柔らかい皮膜」は、ヒグマ自身がもう一度検証してみたいと思った重要な点を、ひとつの作品に組みあげることで整理しなおしたものといえるだろう。そのなかにあって、今回つけ加わった新たな要素は、映像の物質的な土台を問うというテーマではないかと思う。それは映像の身体性と呼んでもいいようなものだ。これまでの公演でも、壁やオブジェ作品に映像を投影するなど、スクリーンの透明性は前提にされてこなかったが、それが本公演で前面化したのは、他でもない、パースペクティヴや時制が異なる複数の映像の同時体験を可能にするため、一枚の皮膜が必要になったことによる。

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