ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.67

Visual Paradigm shif Vol.67 of Haruo Higum

外在化させようとして内包する映像

2015年6月29日(月曜日)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:工藤響子(ダンス)

映像パラダイムシフトVol.67より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台中心に紗幕が緞帳のように左右に広がり、中心から垂直に一本落ちている。奥には2mほどの幅に丸められたビニールが見える。電子音が鳴り響き、森の中で踊る工藤の録画映像が後方壁面に投影されると、公演が始まる。

微妙なアングルからの撮影が、工藤の躍動感を捉えている。引き寄せていそうで突き放し、外在化させようとして内包する映像が見事である。右側の紗幕が外れ、シンメトリーの空間が崩壊する。

実体の工藤が登場する。映像に映る森木の上には、点滴機材が設置されている。工藤が蹲ると映像と音が止む。白血球が沸き立つようなサイケデリック調のCGが投影される。工藤は四足で紗幕の下を潜り、後方へ向かう。

擦るような電子音が鳴る。映像は更にオールオーバーに展開する。工藤は立ち上がり、奥のビニールに足を乗せる。左側の紗幕も外れる。背を反った工藤は爪先立ちで移動する。逆光のライトが光る。

工藤は前方に進み、直接プロジェクターの光を浴びて、床に膝を付ける。映像は細やかに振動する白いCGに変化する。立ち上がった工藤は立位置で膝と肘を伸ばし、体を強張らせる。腕を下ろし、膝を伸ばしたまま床を伝う。

工藤は四足で前に迫り出し、立ち上がってプロジェクターを覗き込み、手を翳して速やかに後退し、中央に立つ。すると、垂直の紗幕が落ち、工藤を覆い隠す。閉じ込められた工藤はそのまま床を這う。

ビニールが膨らみ、オブジェと化す。工藤はオブジェに手を伸ばす。水が沸き立つようなCGが投影される。工藤は立ち上がりオブジェに右手を当て、オブジェの後方へ隠れてしまう。中に入ってしまったのかもしれない。

オブジェの後ろ、若しくは中で、工藤は手足を浮かせているようにその影が伝えてくる。赤、緑、白、青といった色彩が画面の中で入れ替わるCGとなる。軋む様な電子音に音声が追加される。

オブジェはドーム状に膨らんでいく。ヒグマは映像を閉じる。工藤のフォルムは認識出来ないが、動作だけが影を通じて理解することが可能だ。上部と転がしのライトが柔らかく点いては消え、オブジェは床一杯に広がっていく。工藤はオブジェの中で電飾を身に纏っている様子だ。オブジェは膨らみ続け、床120cmを越えていく。それでも膨らみ、高さは工藤の身長にまで達する。

ヒグマは俯瞰的な水の動きと色面が蠢くCGを重ねて投影する。オブジェが膨らみ続けるのでよく見えないが、映像もまた拡張するような錯覚に見舞われる。オブジェ内で電飾が動いているので、工藤は踊り続けていることになる。

異形の魚が泳ぐCGとなる。吐息のような電子音が聴こえる。子供達が遊ぶカラーの実写映像が流れる。運動会の様子だ。オブジェは更に膨らみ続ける。逆光のライトが点滅する。上部中央から強い光が降り注ぐ。

映像もその他の光も潰え、闇の中で工藤が踊る音だけが響き渡る。オブジェは膨らみ続け、客席の目の前にまで達すると、上方へ立ち上がっていく。工藤はオブジェを破って外に出るが、オブジェの膨脹の勢いは工藤を再び呑み込んでいく。

工藤はオブジェを手繰り寄せ、更に突き破り前に出てくる。交響曲が鳴り、工藤は後方へオブジェを押し、逆光の中、硬く、素早く、重く踊り続ける。青と緑の照明が上部で点滅する。

薄明かりの中、オブジェが倒れ込み、再び立ち上がると照明が落ち、55分の公演は終了する。

アフタートークでヒグマは予め設えたインスタレーション以外の映像とダンスの全てが即興であったことを明かす。工藤はダンサーとしてあと一歩のところまでいけたがそれ以上いけなかったことを悔やんだ。

紗幕が落ち、ビニールが膨脹するという落下/上昇のインスタレーションが核になったともいえるが、それによってヒグマの映像と工藤のダンスが「妨害」されるどころか、より映像とダンスの魅力を引き出したとも解釈することができる。

我々はダンスや映像をしっかりと見ている「つもり」になっていて、実際には自分の都合のよいところだけを追っている。読書や美術作品も同様だ。その為、読み直したり見直したりすると、一度体験したこととは全く異なる印象を持つことが多々ある。

我々は日常生活でも惰性で生きている。ましてや芸術作品に立ちあうという特別な場に合っても、作品を見ているだけではなく、何かしらのことを考えているのだ。この作品をどのように解釈すべきか、自分が知っている何に似ているのか、次の展開はなど。

そのため、自分が想起したことと異なる展開が起こると対処しきれなくなる。対処しきれなくなると自己の愚かさを認めたくないので、目の前で繰り広げられている現実を、自己の都合のよいように修正する。そして納得して自己の正当性を主張する。

そのような思考回路を破壊し、目の前に起こっている現実を突きつけるのが、今回の公演の特徴であろう。ヒグマは常に幻想を排除し、現実に手を伸ばして闘いを続けている。それはヒグマの公演に出演する者、立ち会う者も実は同様なのだ。

映像パラダイムシフトVol.67より

北里義之・批評家

「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」シリーズ(以下「映像展67」と公演回数を付して略記する)には珍しく、『柔らかい皮膜』というタイトルがつけられた前回のソロ・パフォーマンスは、映像に関して、現時点であらわれている複数のテーマを整理して再提示するインスタレーションだった。工藤響子をゲストに迎えた今回の「映像展67」は、あらかじめ撮影された工藤自身のダンス映像はもちろん、過去に使用した映像や、「皮膜」「皮膜体」に関わる美術要素を再構成したインスタレーションのなかで、ダンサーと即興的なコラボレーションをするという、映像展の通常のスタイルに戻っておこなわれた。本公演に先立って、1980年代にまでさかのぼるヒグマの映像展のうち、作家が現在のテーマに直結すると考えた作品──1981年『白いオブジェのために』、1990年『五輪の証』、2002年『DIFFERENCE』、2011年『映像インスタレーション&パフォーマンス』──が、ダンサー小松睦を迎える次回の「映像展68」(7月29日)のフライヤーの裏に、「時空間に『柔らかい皮膜体』として、物質的な不透明性、半透明性、透明性、そして網目織という観点で存在した4点の映像インスタレーション」というタイトルとともに列挙され、写真入りで解説されている(下欄参照)。解説文では、「皮膜」が「皮膜体」と呼びかえられ、映像の物質性/身体性からスクリーンの物質性/身体性へと視点がずらされているのを見落とすことはできないが、当然のことながら、映像展に持ちこまれる美術要素は、作家サイドにおいて、アートがアートであるために欠くことのできない、明確なテーマ性を持ったものであることを示している。

「映像展67」には4種類の皮膜体が登場している。公演の前半を支配した皮膜体1は、ステージ中央に、神前幕のように左右に分けて吊るされた白いメッシュ地の薄布で、真中の房の位置にも長い布を垂らしたもの。緑のある公園らしき屋外の場所で踊る工藤の映像が投射される。後半を支配した皮膜体2は、上手奥にまとめられた一塊のビニールで、送風機から風を送られて巨大な風船のようにふくらんでいき、観客の目の前を壁のようにおおうまでになった。最前列にならぶ観客のなかには、身体の半分がビニールにめりこんでしまう人がいたほどである。巨大風船の奥で、なにやら激しい音をさせる工藤は、半透明のビニールの皮膜にぼんやりと影が映るばかりで、なにをしているのかはまったくわからず、彼女がふりまわす寒色系と暖色系の電球を交互につけた紐のようなものが、ときどき身体のありどころを照らし出す具合だった。皮膜体3はホール奥の壁で、メッシュ幕がとらえきれなかった映像を受ける冒頭につづき、公演の中間部では、幕が落ちたあと映像を支える橋渡しの役割をした。最後の皮膜体4は、いうまでもなく、出来事を起こしていくダンサーの身体そのものだ。前者ふたつの皮膜体は意識化されたものであり、後者ふたつの皮膜体(壁面、皮膚)は、物体の表面であり、透明・半透明でないため、あるいは内側に入れないため、かならずしも気づかれるとは限らない、無意識の領域にある皮膜体である。「映像展67」では、皮膜を内側から映すカメラの視線はなく、ダンサーが皮膜の内外を出入りするところにパフォーマンスの流れが作り出された。

公演に使われた映像は、工藤の屋外ダンスの他にも、波紋をデジタル処理したような抽象的な動き、鈴木優理子が踊った「映像展62」(2014年10月29日)に登場した子どもの運動会の様子、過去のいくつもの映像展に出現していたデフォルメされた泳ぐ魚など。上手の椅子に座ったダンサーは、開始早々にはずれた右側の白幕をささげ持ったり、身を低くして観客席前まで進んでくると、プロジェクターの光を真正面から受けて立ちあがり、両手を前に出して、強い流れに押し返されるようなしぐさをしながら、じりじりと後退したところで落下してきた白幕を身に巻きつけたり、巨大ビニール風船のなかで、皮膜に投影される映像とは無関係に風船内を動くなどした。クライマックスの場面では、映像が消えたあと、大風船の内側からビニールを中央に寄せて大きく波打たせ、しばらく波打つ皮膜の大海原に顔を見え隠れさせていたかと思うと、そこからの突破がむずかしかったのか、観客席側の壁に移動して皮膜を引き裂き、一気に外に飛び出した。公演の最初から左足首に巻かれていた黒いゴム輪はそのままだったが、大風船のなかで、前半に着ていた白い衣裳は黒い衣裳に着替えられていた。ここまで映像展の雰囲気を決定していた水滴や荒い息づかいの響きは、唐突に鳴り出した3拍子の管弦楽曲で打ち破られ、本公演では唯一となるダンス的な展開をへて終幕となった。見られるように、工藤のダンスは、映像の内容にではなく、(おそらくは衣裳の延長線上にある)複数の皮膜体に呼応するものだったと思われる。

ここで形式的な整理を試みておけば、ダンサーとコラボするヒグマ春夫の映像展において、舞台/俳優、装置/身体というように、出来事を二項対立的にとらえる習慣的な意識を突き崩す映像の身体性は、「皮膜」と「皮膜体」という二種類の概念に結びついてあらわれてくる。前者の「皮膜」は、ヒグマ自身がカメラを手に山道を登る動画「映像の身体性」をYouTubeに投稿した(下欄参照)ように、映像を撮影/投影するカメラの視線がテーマになるとき、撮影者/投影者であるヒグマ自身の身体を介在させて、ある種の自己言及性とともに、映すものが映し出されるコンプレックスした関係へと観客を巻きこんでいく。後者の「皮膜体」は、ダンサーの身体や動きが、映像インスタレーションを多様に組み換えていくときに露出してくるもので、他者の身体を迎えることによって、映像の身体性がいわば客体化し、皮膜体との間にコラボレーションの関係が生まれてくるといえるだろう。複数の身体が、カメラの視線や映像を介して交錯的な関係に入るとき、ヒグマが「映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか」と書く問いが、可能性として問えるようになってくる。映像展においてダンサーに求められるものは、ある意味で過重なものと言えるだろうが、それはすべての結果を受け入れる自由の名においておこなわれている。■

照明:早川誠司