ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.69

Visual Paradigm shif Vol.69 of Haruo Higum

「再稼動」「想定内」「現状維持」

2015年8月20日(木曜日)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:上田獏(ダンス)+橋本識帆(俳優)+丹下一(俳優)

映像パラダイムシフトVol.69より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

天井から袋状のオブジェが伸び、床に広がっている。暗転し、公演が始まる。後方壁面に人型の切抜きの映像が、無数、投影される。緑、赤、青、紫と様々な色が混じっている。人型は増殖を繰り返す。電子音が木霊する。人型は溶解し、水が溢れるように画面は灰色になっていく。映像は二重映しであり、背後に青い十字架が立ち昇っていく。

扉から丹下一、橋本識帆、上田獏が縦並びに入り、場内を一回りすると、丹下は舞台左側の椅子に座り、橋本と上田が舞台中央で並ぶと電子音が止む。上田は右掌を鳥類の嘴のように開いては閉じる。橋本は佇み「東にいけば」と朗読を始まる。後方壁面の映像は再び人型が点滅し、実写と二重映しであるが、実写は認識することができない。

橋本は座っている丹下にノートを渡す。丹下も朗読を始める。「東にいけば」。橋本は前に出て上田と同じように掌を揺るがす。二人の影が後方壁面の映像に映り込み、映像の人型が増すことになる。丹下の朗読が止むと電子音が鳴り響く。上田は右前、橋本が左奥と、二人は立ち位置を定め、鏡合わせのように腕を動かす。 

オブジェが徐々に膨らんでいく。上田はオブジェに体を寄せ、離す。二人の動作は激しさを増す。後方壁面の映像は、モノクロームの樹木のような抽象性となる。オブジェは膨らみ続ける。空を飛び交うような電子音が流れる。オブジェは映像を透過するが、次第に映像が認識できなくなっていく。

二人がオブジェの後方へ回りこみ、二人のダンスも完全に見えなくなっていく。電子音も止まる。丹下が立ち上がり「どうして」、朗読を始める。橋本が客席前方のヒグマのいる位置から赤外線カメラを取り出し、中に戻って撮影して再びヒグマの元に返却した様子だが、その映像を私の位置からは確認することが出来なかった。

オブジェは客席前方にまで、膨らみ続ける。オブジェの中に、上田と橋本の影が薄らと見える。リズミックな電子音が響き渡る。丹下は沈黙を経て、再び朗読を続ける。上田と橋本はオブジェを動かしている。すると、オブジェに映像が映りこむ。二人の揺れにより、オブジェは激しく形が変わる。

オブジェを照らしていた桃色の照明が天井からの白一本となる。丹下も立ち上がり、上田と橋本と共にオブジェを突き破る。三人は予め仕込まれた紐を会場の四隅から解き、オブジェを括って頭上に吊り上げる。丹下が中央で立ち、上田と橋本は左右に座る。映像は後方壁面一杯に5×5に分割され、それぞれに異なる内容が映し出されている。

「私を目指して何かがやってくる」。丹下が語彙を強めて朗読を始める。明治時代の黄昏時の狂気を50年後に振り返る詩と、一気に畳み掛けるように朗読する丹下の迫力は圧巻だ。丹下、上田、橋本の影が、映像に吸い込まれていく。ノイジーな電子音が流れる。橋本が最初と同じ朗読を始める。娘が水へ行くのではなく、水が娘に向かっている内容である。

死に向かう朗読に「再稼動」「想定内」「現状維持」という今日の問題が盛り込まれている。上田と橋本はダンスを続ける。映像の人型は、壊れそうになりながらもその形を留める。「ゆっくりと」、丹下は朗読をしながら、椅子に臀部をつけたまま持ち上げて中央へと移動する。 上田と橋本は踊り続ける。映像が止む。朗読が終わると、45分の公演は終了する。 

映像パラダイムシフトVol.69より

プログラムを見ると、W・シェイクスピア/江戸馨訳『ハムレット』、北原白秋『東へ行けば』がテクストとして使用され、寮美千子『星の魚』からインスピレーションを受けたことが分かる。時代、国が異なる詩が一つの舞台で融合され、それぞれの作品が持つ異相が引き出されるのが丹下の舞台の特徴だ。

丹下の舞台のもう一つの特徴は、演じることと踊ることの中間を橋本が行う点にある。今回は日本舞踊を修得した上田が参加しているが、上田の踊りから日本舞踊を感じることはなく、橋本の踊りも素人の域に留まることはなかった。二人は言葉を携える身体を、素直に提示したのであった。

演劇とダンスは裏腹だ。言葉と肉体を共に携える。すると言葉を携えないダンスは存在しない。映像もまた同様であろう。ヒグマの公演と丹下の演劇には、衝突と融合という定義が存在しない。互いを援用することもない。主従関係が生まれない。互いの作品と全く別の世界が生み出されているのだ。

ヒグマの映像とオブジェもまた、言葉を携えている。映像は過去の記憶でもあり、未来を予兆させる神託さえにも例えることが出来る。膨らみ続けるオブジェは「いま、ここ」にいる感覚を狂わせ、「いつか、どこか」へと誘っていく。ヒグマの作品とは立ち会う者の感覚を揺さぶり、他に類のない発想に見る者を導いていくのだ。

二人が共同で生み出した世界を繋ぎとめ、編み込むのは見る者の行為であり、それが新しい芸術を生み出す。美術、映像、演劇、ダンス等というカテゴライズよりも、そこで何が行われ、何を感じなければならないのかを、探らなければならない。今回の場合は、当然の如く人型=存在=人間の消滅である。