ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.7

Visual Paradigm shif Vol.7 of Haruo Higum

「せなかあわせ・差異」空気をけずる

2008年12月18日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫

映像パラダイムシフトVol.7より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

壁面50cm近く、天井から床にかけて向かい合わせに紗幕が張られる。会場一杯のため、引いて双方をみることは不可能だ。紗幕の間に幅80cmほどの和紙が橋渡しされ、その上にデジカメ、干草、小型カメラ、隕石、透明のボールに入った橙と青の顔料、箸二膳、ビデオカメラが展開している。
二台のプロジェクターが稼動し、開演する。水若しくは空という、青と白の抽象的な動画がシンメトリーに投影される。直ぐに、隕石の静止画となる。目の前にあるものと同じものだ。隕石の静止画はCG加工によって宙を飛ぶ映像に転換し、大きさがモザイク状になるまで拡大されていく。
その様子をヒグマは紗幕の裏側で見詰めている。映像が止まり、和紙にライトが当たる。
ヒグマは場内ライブ映像に切り替える。小型カメラが実体の隕石をとらえている。ヒグマは右手人し指と中指で隕石を転がす。時折、顔料が入るボールにぶつかり、空気を切るような音が生じる。
ヒグマは右手でゆっくりと小型カメラを吊るし、干草を映し、箸まで戻り据え置き、一方の映像をデジカメによる干草からの魚眼図、他方のそれをビデオカメラによる俯瞰図に切り替える。
ヒグマの両手は干草を掻き分けていく。15本程を右手で選別し、左手で揃えて持つ。その先に橙の顔料をつけ、和紙に抽象的な線を描いていく。そして箸を一膳持ち、和紙に干草を並べる。それがまた、線となっていく。
今度は一本ずつではなく束として干草を選別し、握り、青い顔料が入ったボールの上に乗せ、箸を用いて顔料と干草を混ぜ、橙の線に離して/まとめて/集結させて/散乱させて、丁寧に繋げていく。箸の先についた顔料で線を付け足す。
干草の山に橙の顔料を垂らし、一筋の線を描きいれる。映像は「アウマンの家」でのインスタレーションの写真と波の動画、球体の動画になる。球体の表面に触れるが如く、紗幕に自己の手の影を翳す。
映像は炎をイメージした動画となる、持続音が聴こえる。「アウマンの家」でのインスタレーションの写真と波の動画、球体の動画に戻ると音が止む。ヒグマは両手で球体を抱えるように、頭に乗せるように影をつくる。
両手を下げ、膝を曲げる。片方の映像をデジカメのライブに切り替え、干草を踏み締める。紗幕には前からの足の映像とヒグマの上半身の影が同時に映りこむ。片方の映像をビデオカメラに切り替え、紗幕には後ろからの足の映像とヒグマの上半身の影が同時に映りこむ。
ヒグマは左足の指で箸を掴み取ろうと試みるが、上手くいかない。断念し、左足裏で隕石を転がし始める。蒸気が上がるような音が聴こえてくる。紗幕内では、足の映像と実体のヒグマの頭頂が触れている。
ヒグマは再び干草を踏み締め、自らの影でビデオカメラのレンズを塞ぐ。すると映像は「アウマンの家」でのインスタレーションの写真と波の動画、球体の動画になる。直ぐに小型カメラによるライブに切り替える。ヒグマは小型カメラを右手で水平に持ち、隕石をとらえると床に置く。
再び「アウマンの家」でのインスタレーションの写真と波の動画、球体の動画に切り替え、ヒグマは紗幕後方に隠れる。蒸気が上がるような音に波の声が重なり、大きくなり、小さくなり、止む。ライトが和紙を強く照らし、暗転して50分の公演は終了する。
アフタートークでヒグマは次のように語った。「隕石をきっかけに進めた。隕石、干草などの自然なものが映像を通して自分の中でどのように反応するのか確かめたかった。パフォーマンスとは、完成されたものであるというよりも、行為の中で体験が生れ、それを見る者が自己と異なる見解を示すことのほうが面白い。続けることによってその人の体を通して形が生れる。これはアート全般の話でもある」。

映像パラダイムシフトVol.7より

今回の公演でヒグマは実体に一切の視線を落さず、映像のみをみて行為を行なっていた。だからヒグマにとって橙と青という色は隕石同様、その存在に意義があったのであろう。描くということ、箸を使うという日常の動作を行うこと、歩むこと、小型カメラを用いて撮影するということさえも、ヒグマにとっては紗幕の中の出来事が基本となっていたのだ。
ここで重要なのは、映像の中というヴァーチャルな行為に終始していたのではなく、ヒグマ自身が人の前に曝され、被写体である筈の自己が飜って実体として現前していたという点にある。
それは、ヒグマ自身と見る側の問題でもあったといえる。同時に、映像と実体の反転も起こりえるだろう。
映像であろうとも、実体であろうとも、「見る」という行為を行うことに関しては同列である。しかし、それを「誰が」見るのかという問題になると、話が転覆する。すると議論で必要な焦点は、「見る」ことではなくなるのである。
私達は何を考えていけばいいのだろうか。ヒグマが隕石によって創造力の空間に誘われたように、我々もこの公演によって想像力の空間に導かれる。では、想像力とは何か。

照明:坂本明浩
撮影:川上直行