カメラの向こうで
ゲスト: 海保文江
日時::2015年10月26日(月)
会場::キッド・アイラック・アート・ホール1F
(東京都世田谷区松原2-43-11)
映像作家・美術家 performance:ヒグマ春夫
照明::早川誠司
協力::キッド・アイラック・アート・ホール
報告:宮田徹也
(日本近代美術思想史研究)
扉を入って通常どうり左側に雛壇が設けられ、その客席から見て正面と左壁面に家や船のような印象を与える形に切り取られた大きな白いカッティングシートが貼られている。家にある窓には炎のようなランプが燈っている。右壁面にも客席が設けられている。
駅のアナウンスと柔らかい電子音が重なって流れている。海保はマイムともいえるダンスを繰り返す。雛壇前方に席を設えたヒグマは手元、右下、左上、左下と四つのカメラを駆使してライブ映像を投影する。一台のプロジェクターを動かして複数の映像を錯覚させる。
使用した赤外線カメラは暗い時にはモノクロ、照明が当たり明るくなるとカラーへと自動で変化する。カメラは自らが投影する光と早川誠司による照明により、カタカタと音を立てながら素早く色彩を切り替える。
海保は壁面に掌を固定して、胴体と足により闇の中を探っていく。掌を壁面から離すと足を大きく広げ深く膝を曲げて瞬時に足を踏み込み、音を立てる。体を戻し、爪先で立って背を反る。リズミカルなパーカッションの音が響き渡る。
海保のダンスは禽獣や生物のイメージを収斂させ、見る者に発想を限定させながらもその裏を踊っているように見える。ヒグマは反対に、抽象的なイメージを拡散し、見る者に発想を委ねながらも映像とインスタレーションの可能性を突きつける。
どちらが正しいという訳ではない。異なる性質の芸術が呼応し、自らの枠を破り新しい世界を切り拓いていこうという意志が問題なのである。この公演では、二人の意志が合致した。たとえそれを二人が望んでいなくとも、みる者に判断が委ねられたのだ。
ただ異なることといえば、ヒグマはダンス、舞踏、パフォーマンスとのコラボレーションを数多くこなしているが、その何れとも深く距離を隔てている点にある。海保は殆どコラボレーションを経験していないのではないだろうか。それがまた有効に作用した。
早川の照明は光と共に影を生み出し、映像の一部として機能する。海保は掌で顔を覆い隠し、上半身を沈めて後退する。ヒグマのライブ映像はフィードバックを起したとしても、赤外線カメラのために霞んで白い闇の中へ吸い込まれていく。
海保が正面壁面に向かい床に座ると45分の公演は終了する。アフタートークでヒグマが話す。今回のインスタレーションは、「カメラの向こう」を意識した。監視カメラを使い、カメラから海保が逃げられない状況を設定した。
監視カメラは、私達が生活する様々な場所に存在する。携帯電話にカメラが付随するのは当たり前となり、現在では今撮った写真がwebに直結することが常識となった。これまで自分が好きで撮っていた映像が誰でも使用可能となり、カメラのあり方が変化した。
映像も同様で、自己のイメージが自己だけのものではなくなる。監視カメラの映像とは、事件などの事が何か起きなければ見直すことがない。「カメラの向こう」とは、監視カメラの映像を知らない誰かが全く異なる用途で笑ってみている状況のことかも知れない。
「見る」「見られる」の関係性を、この場で実験した。海保が持ってきた音を加工し海保に渡し、海保は加工された音を元に、自らのダンスを再構築した。海保はコメントを残すことはなかった。
このようにヒグマが監視カメラの存在を意識して公演を行ったと語ったからこそ、この言葉の裏を読み取らなければならない。まず考えられるのは、監視カメラの存在自体である。ヒグマは「監視しない」カメラを想定したのではないだろうか。
すると、映像そのものが無化される。これまで写真を含む映像に特別の価値観が付加されていたが、誰もが誰でもある映像を発信することにより、映像はその特権を剥奪され、単なる画像として宙に漂うのみとなる。
主体的なイメージなき単なる画像が満ち溢れ、全く異なる価値を与えられて本質から遠く離れた意義を与えられる。しかしこれは「解釈」という意味で考慮すれば、古代ギリシャから人間のみが持つ想像力によって支えられ、人間はこの想像力を以って繁栄した。
その本質から離れることなく制作と批評を続ければ、意義の剥奪は決してネガティブな印象ではなく―かといってポジティブになりすぎると開き直りに陥ることになるのだが―冷静に判断を下せることになろう。
海保のダンスにも、この発想を当て嵌めることは可能である。海保のダンスから単にムーヴ、フィギール、メソッドのみを抽出すると、その本質には届かない。むしろダンスを見る際に普段意識しない反復、静止といった時間概念を抜き取ると考えやすい。
海保が行っていたのは、まさに醗酵である。生成や呼吸と記してもいいのかもしれない。情動とは右上がりでなく、繰り返すように見えて決して同じ光景が訪れない波のようなものなのだ。
この感情の襞を捉える努力を見る者がなされなければ、自らも他者から尊重され得る機運を見失うのではないだろうか。ここに、この公演の謎が隠されている。
北里義之・批評
ダンスの海保文江をゲストに迎えた<ビグマ春夫の映像パラダイムシフト>の第71弾「カメラの向こうで」がおこなわれた。例によって、出入口の扉横にもうけられる映像ブース、その対角線上に位置する二面の壁には、紐(あるいはワイアー)に吊りさげられた家の形の白布、その右端には、灌木を思わせる奇妙な形の白布もさがる。右壁の家に開いたいびつな窓は、そのなかに電球をひとつともした様子がカメラを連想させ、左壁の布に開いた3つの窓は、形そのものが携帯電話になっている。終演後の挨拶に立ったヒグマによれば、SNSなどで際限なくネットワークされていくおびただしい映像は、現代社会において、すでに私的所有を離れ、私たちが世界を見るときの「窓」になっていることを告げる風景ということになる。踊るダンサーは、あるいは下手側から、あるいは足もとからと、何台もの監視カメラによって撮影され、踊り手の衣装や白い家にむかってプロジェクターからライヴ映像として投射される。チカチカいうスイッチ音とともに、映像には、頻繁に色が出たり消えたりする。画面に観客席も映し出されるのは、私たちが映像の外側にいるという固定観念を破壊するためだろう。これらのことが、踊るダンサーも含め、事前に通告されなかったこと、また映像や照明が即興的にパフォーマンスされたとしても、ゲストの海保は、あらかじめ踊りのパートを作ってきていたので、映像展は、純粋なダンス公演としても楽しむことのできる内容になっていた。
打楽器の響きに混じって、砂利を踏む靴音、子どもたちの高い声、自動車のエンジン音、駅のアナウンスなどのSEが雑多に聴こえてくる。特に、駅のアナウンスの頻繁な反復は、川村美紀子の作品を思い起こさせた。白い上着、裾の赤く染まったスカート、花柄の長いパンツといういでたちの海保は、多彩なしぐさを織りまぜながら、ゆっくりとした動きでプロジェクター前から反時計回りに会場を一周。出発点に戻ると、プロジェクターの強い光に顔をさらしてから仰向けに寝転び、ステージを対角線に横切って反対側のコーナーへ。そこから、中央スペースを使った動きの速いダンスへと移行した。ひとつひとつの動きに stop and go をかけつつのダンスが印象的。やがて、先ほどとは逆に、今度は時計回りにゆっくりと会場を回りはじめ、多彩な動きの形をはさみながら二面の壁の間までくると、ケンガリの響きが激しく打ち鳴らされるクライマックスへと突入、最後の場面では、観客に背中を向けて電球のともる窓の前に立ち、鳥が飛ぶように両手を後方に広げたまま、ゆっくりとからだを沈めていった。監視カメラ(の映像)とダンスの共演は、観客の一方通行の視線を複数化することにつながり、知らないうちにシステムから監視人にさせられるというより、むしろ現実の多面性を強調したもののように感じられた。
映像展で特に印象に残るライヴ映像は、これは毎回そうなのだが、ダンサーの身体やその動きを、足もとの至近距離からとらえたものである。「等身大」がじつは実体ではなく、ひとつの概念であることの虚構性を暴露するこの機械的視線は、カフカ的なセンスの共通性から、小暮香帆『AQUA ZONE』公演(9月26日、神楽坂セッションハウス)で、天井にまで届く脚立の最上段近くまで登ったダンサーが、頭のすぐうえの電球に照らされて、ホリゾントの壁に巨大な頭部の影を投影した場面を思い起こさせた。両者の間にある相違は、光が生み出す壁のうえの影が、(ときには反転して「真実の姿」にもなるような)小暮の「分身」であるのに対し、一方のデジタル映像が映し出す身体(の影)が、いわば切り刻まれた身体、無数の切片のひとつ、断片の集積へと変質させられた身体だという点にある。思いかえせば、この映像展においても、プロジェクターと映像の間にはさまって生まれるダンサーの巨大な影は、つねに分身的実体として感覚されていた。身体から引き離すことのできない一対の存在である影と、機械的にいくらでも増幅可能な、本質的に無数の切断面を作り出す監視カメラの映像群。身体に投影される映像と、映像に投影される身体(の影)。映像と身体の間に生まれるデジタル/アナログなダンス。
私たちの場合、ここでこうした対比が可能になるのは、この映像展の場に居あわせることで、監視社会がネット上に蓄積している無数の映像の外に出る(はみ出す)ような身体を、実際に “持つ” からに他ならない。おそらく安保法案の強行採決に抗議する国会前デモでも、映像と身体をめぐって同じことが起こっているだろう。そのようにしてはみ出す身体は、映像展の場合、即興コラボレーションの手法によって、さらに身体の共同性へと開かれる契機が与えられている。しかし、おそらく公演の質を維持するためだろう、海保文江がダンスをあらかじめ振付けたように、現在のところ、そこにははみだした身体どうしの間にずれも存在し、合意によるひとつの共同性を結ぶまでにはいたっていないように思われる。最近のヒグマの映像展で使用される「監視カメラ」のテーマに引きつけていうなら、ミシェル・フーコーが描き出したシステム化された監視社会の存在を、私たちがそれと知らずに代行してしまっている可能性を、アートの社会的な機能のひとつである “気づき” によって、感覚レヴェルからむきだしにしてみせてくれる映像展であるが、その先に思考されるべきものが空欄になっているように思われるのである。それは意図された空欄なのだろうか、それとも現在のダンスやアートの限界を示すものなのだろうか。
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