ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.71

Visual Paradigm shif Vol.71 of Haruo Higum

電子音が重なって流れる

2015年10月26日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:海保文江

映像パラダイムシフトVol.71より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

扉を入って通常どうり左側に雛壇が設けられ、その客席から見て正面と左壁面に家や船のような印象を与える形に切り取られた大きな白いカッティングシートが貼られている。家にある窓には炎のようなランプが燈っている。右壁面にも客席が設けられている。
駅のアナウンスと柔らかい電子音が重なって流れている。海保はマイムともいえるダンスを繰り返す。雛壇前方に席を設えたヒグマは手元、右下、左上、左下と四つのカメラを駆使してライブ映像を投影する。一台のプロジェクターを動かして複数の映像を錯覚させる。
使用した赤外線カメラは暗い時にはモノクロ、照明が当たり明るくなるとカラーへと自動で変化する。カメラは自らが投影する光と早川誠司による照明により、カタカタと音を立てながら素早く色彩を切り替える。
海保は壁面に掌を固定して、胴体と足により闇の中を探っていく。掌を壁面から離すと足を大きく広げ深く膝を曲げて瞬時に足を踏み込み、音を立てる。体を戻し、爪先で立って背を反る。リズミカルなパーカッションの音が響き渡る。
海保のダンスは禽獣や生物のイメージを収斂させ、見る者に発想を限定させながらもその裏を踊っているように見える。ヒグマは反対に、抽象的なイメージを拡散し、見る者に発想を委ねながらも映像とインスタレーションの可能性を突きつける。
どちらが正しいという訳ではない。異なる性質の芸術が呼応し、自らの枠を破り新しい世界を切り拓いていこうという意志が問題なのである。この公演では、二人の意志が合致した。たとえそれを二人が望んでいなくとも、みる者に判断が委ねられたのだ。
ただ異なることといえば、ヒグマはダンス、舞踏、パフォーマンスとのコラボレーションを数多くこなしているが、その何れとも深く距離を隔てている点にある。海保は殆どコラボレーションを経験していないのではないだろうか。それがまた有効に作用した。
早川の照明は光と共に影を生み出し、映像の一部として機能する。海保は掌で顔を覆い隠し、上半身を沈めて後退する。ヒグマのライブ映像はフィードバックを起したとしても、赤外線カメラのために霞んで白い闇の中へ吸い込まれていく。
海保が正面壁面に向かい床に座ると45分の公演は終了する。アフタートークでヒグマが話す。今回のインスタレーションは、「カメラの向こう」を意識した。監視カメラを使い、カメラから海保が逃げられない状況を設定した。
監視カメラは、私達が生活する様々な場所に存在する。携帯電話にカメラが付随するのは当たり前となり、現在では今撮った写真がwebに直結することが常識となった。これまで自分が好きで撮っていた映像が誰でも使用可能となり、カメラのあり方が変化した。

映像パラダイムシフトVol.71より
映像も同様で、自己のイメージが自己だけのものではなくなる。監視カメラの映像とは、事件などの事が何か起きなければ見直すことがない。「カメラの向こう」とは、監視カメラの映像を知らない誰かが全く異なる用途で笑ってみている状況のことかも知れない。
「見る」「見られる」の関係性を、この場で実験した。海保が持ってきた音を加工し海保に渡し、海保は加工された音を元に、自らのダンスを再構築した。海保はコメントを残すことはなかった。
このようにヒグマが監視カメラの存在を意識して公演を行ったと語ったからこそ、この言葉の裏を読み取らなければならない。まず考えられるのは、監視カメラの存在自体である。ヒグマは「監視しない」カメラを想定したのではないだろうか。
すると、映像そのものが無化される。これまで写真を含む映像に特別の価値観が付加されていたが、誰もが誰でもある映像を発信することにより、映像はその特権を剥奪され、単なる画像として宙に漂うのみとなる。
主体的なイメージなき単なる画像が満ち溢れ、全く異なる価値を与えられて本質から遠く離れた意義を与えられる。しかしこれは「解釈」という意味で考慮すれば、古代ギリシャから人間のみが持つ想像力によって支えられ、人間はこの想像力を以って繁栄した。
その本質から離れることなく制作と批評を続ければ、意義の剥奪は決してネガティブな印象ではなく―かといってポジティブになりすぎると開き直りに陥ることになるのだが―冷静に判断を下せることになろう。
海保のダンスにも、この発想を当て嵌めることは可能である。海保のダンスから単にムーヴ、フィギール、メソッドのみを抽出すると、その本質には届かない。むしろダンスを見る際に普段意識しない反復、静止といった時間概念を抜き取ると考えやすい。
海保が行っていたのは、まさに醗酵である。生成や呼吸と記してもいいのかもしれない。情動とは右上がりでなく、繰り返すように見えて決して同じ光景が訪れない波のようなものなのだ。
この感情の襞を捉える努力を見る者がなされなければ、自らも他者から尊重され得る機運を見失うのではないだろうか。ここに、この公演の謎が隠されている。

照明:早川誠司