ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.73

Visual Paradigm shif Vol.73 of Haruo Higum

イメージパズル的手法

2015年12月17日(木曜日)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト:田中悠宇吾(シタール奏者)

映像パラダイムシフトVol.73より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

タジマハール寺院の形に切り取られた紙が、左右中央壁面に貼られている。それぞれの壁面に対して一つずつ、計三台のプロジェクターが用意されている。田中悠宇吾のフォルムに切り取られた紙と、掌のオブジェ三体、アルミホイルの波が床を支配する。
田中による持続的電子音が鳴り響き、公演が始まる。三台のプロジェクターが稼動し、波の実写、色面、アメーバ状のCGが折り重なる。田中は床後方右寄りに座る。映像は、色面のみとなる。持続音はそのまま、田中の演奏の西洋的和音とインドの旋律が入り混じる。
紙によって映像は寺院の形を強調するが、映像は寺院の形に切り取られているのではなく、壁面全体を照らしている。三つの映像は同じものか、判断できない。異なるようにも見えるし、同じ内容が時間差で見る者に迫っているようにも見える。
つまり、音楽によって西洋/東洋という場所性が剥奪され、映像によって時間軸が破壊されるのだ。更に田中による鼓動音も追加され、全てが地滑りを引き起こし、高波に飲み込まれていくような感覚に襲われる。
映像に、弾ける飛沫のようなCGが挿入される。早川誠司による斑の照明が、床を薄く照らす。田中は音にエフェクトを施し、シタールの世界観から離れていく。サラサラと水が流れるような音は、ギター、その他の楽器からも発せられない特異性がある。
照明が、斑からオレンジのスポットとなる。夜から朝になる印象ともいえる。逆の発想とも解釈できる。波の実写、色面、アメーバ状CGが折り重なる映像が淡々と続く。いまと少し未来、少し過去もある。私達は何を見て、何を想起するのであろう。
情報が満ち溢れ、立ち現れては消え失せる今日に、私達は何を記憶に留め、何を考察し、何を指針に次の活動へ移ればいいのだろう。シタールという伝統的な音色と人類がこれまで発生させたことのない映像に向き合おうと、様々な思いが心を飛び交う。
例えば朝来た電子メールの返信が午後にずれ込むと、既に状況が変化し、電子メールの意味をなさなくなる場合が多々ある。朝、メールをみれば回避できたかもしれない。それは電子メールだけではなく、郵送される手紙、電話にもいえることであろう。

映像パラダイムシフトVol.73より

全てが録音された「過去」になってしまっては、我々は何も出来なくなる。我々はどのような状況に置かれても、何も知らない、未知の世界を自らの手で切り拓いていかなければならないことに気付かされる。
田中は音色をシタールに戻し、持続音とビートに乗って心地よい旋律を生み出していく。暫くするとその音が止み、プロペラ機が飛び交うような音が聴こえてくる。床に直径15cmほどの円の光が11個、弧を描くように連なって投影される。
やがて、健康的なまでの電子音がプロペラ機の音に重なっていく。それは、電波ラジオ的ノイズと化していく。床中央に、太陽のようなオレンジの円の光が輝く。音は再びビートを形成し、オレンジの円の光が潰えると後方壁面上部に斑の光が投影される。
それは星空のようにも見える。ピアノかオルガン的和音が鳴り、田中は止めていたシタールの演奏をゆっくりと再開する。ヒグマは突如、映像の色彩を喪失させ、視覚、聴覚ともに、モノクロームの世界へ向かっていく印象を見る者に与える。
映像に表れる雨、雫、湧き水という流体の印象は、実写、CGという映像の分類領域を破壊する。そして、上昇/下流しているのかも判別できない。水自身が生命力を持ち、自らの意思で動いているように見える。
重量による垂直性に、雨を代表とする水は引き摺れているのでない。波を代表とする水平性は月の引力に作用されていることを考慮に入れると、我々は常に複数の影響を受け、一元的でない、多元的な存在が合わさってことを理解してゆく。
公演開始当初の映像になる。シタールの音色は失われ、和音のみが会場を支配する。映像が消え、後方壁面上部の斑の照明も、床のオレンジの光も潰える。音だけが残り、その音の振動が誰にも届かなくなった時、50分の公演は終焉する。
アフタートークで、ヒグマは三種類の映像を制作し、投影したことを明かした。前回の画廊の窓、今回のタジマハール宮殿に切り抜いた白い紙に投影する方法を「イメージパズル」と名付け今後も展開する可能性を示唆した。 我々はパズルとは解し、完成させる行為だと思いこんでいた。パズルの完成とは、実は全てのパーツを合わせることで始まり、そこに至るまでの過程を時間と空間を逆転させて解した状態を想い起こして愉しむものなのだ。
すると、記憶が不可欠となる。この記憶というものが更に厄介なもので、我々は自己の記憶が曖昧になるどころか、時には他者の記憶を自らのそれと思いこむことがある。見たことのない世界を見た気になることがある。

照明:早川誠司