next 倉重光則展における4人のコラボレーション

 

2009年6月7日(日曜日)に行われました  撮影:十倉宗晴 (A) 、川上直行 (B)
  
西村智弘(評論)
  
ヒグマ春夫(映像・美術)
   
水野俊介(5弦ウッドべース)
   
倉重光則(美術)
   
会場:POLARIS ☆ The Art Stage
(B)西村智弘
(B) ヒグマ春夫は、リアルタイムで自身の手を映しだした。
(A)ヒグマ春夫
   
2009年6月7日倉重光則+ヒグマ春夫+水野俊介+西村智弘
宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

    
ポラリス一階の展示場には黒い壁が立ちはだかり、その足元に蒼いネオン管が横へ伸びる。この黒は色彩を持たない単なる「黒」でも、光の当たらない「陰」でも、総てを飲み込む「闇」でもない。薄らと佇む姿は透明にも、その面は自らが発光しているとも、あらゆる万物を反射する鏡であるとも見ることができる。それが鉄板にオイルが塗られたものであっても、この黒は倉重が創り出した黒なのだ。
     
この黒を取り巻くガラス窓は総て開けられている。窓になっていない部分のガラスにも、黒は乱反射する。晴天の6月の18時には、未だ太陽光の残骸の破片物が降り注いでくる。
     
倉重は展示期間の半分を超えたところで、展示場向かって右奥の森の中に一本のネオンを立てた。この光にも、倉重の黒と同様、光の破片物が優しく包み込んでいる。
     
18時20分、西村智弘が倉重の作品の解説をしている間に、部屋の一番奥に位置する水野俊介がパーカッション、五弦ベースの演奏を始める。水野は指弾きでスラーを多用した旋律を奏でる。
     
25分、ヒグマ春夫はプロジェクターの蓋を開ける。ネオンと並列に水が沸き立つ動画が上下する。俯瞰的な水と光のラインが画面を横切る。水野は和音を織り交ぜていく。一つの曲を演奏しているのだ。高音を響かせる。
     
一度静止した映像が動き出す。水野は弓弾きに移行する。画面は雲の上昇するような動画となるが、再び静止する。ネオンとの関連性を問いかけているように見える。
     
映像が動き出すと、水野は指弾きとなる。雲はグリッドに変化し、水が沸き立つ動画と入れ替わり、再度グリッドとなる。倉重の作品が画面に映り込んでいるのはヒグマのライブ映像が重なっているのか。
       
水野の音はまるでグリッドのリズムに寄り添っているようにも聞こえる。それらは一つの矩形を形作り、静かに回転を始める。沸き立つ水平線と蒼い線は、沈黙したままである。ヒグマは映像をライブに切り替える。鮮明な映像ではないのでフェードバック効果が成されているのか判断できない。ただ、色が異なる気がする。
     
ヒグマは再び映像を、グリッドによる矩形と二つの波のCGへ変化させる。日食の惑星を跳び越すイメージのCGから自らの左手を映すライブに切り替える。映像の中にあるヒグマの指は実際のネオン管に触れそうで触れない。
     
ヒグマが足元の石段を黒に投影すると、水野は弓弾きを始める。ヒグマのカメラは座る倉重を縦横逆に、演奏する水野を斜めにとらえる。いつしか画面は入れ子状に変化する。まるで奥行きが存在しているかのようだ。
      
水野は一つのフレーズのバリエーションを奏でているように感じる。優しい指弾きを行うと、ヒグマは森をとらえ黒の中に吸い込ませていく。水柱のCGに変化したと思うとヒグマは据え置きの小型カメラに自らの右手を翳す。水野は演奏を止める。
       
ヒグマは小型カメラに点滅する赤い光を当てながら、黒へ近づいていく。水野は高音の弓引き、低音の指弾きと一つの楽曲の中で対話を繰り広げる。しかしそこに物語性が育まれていくのではなく、より抽象性を増している感がある。
      
ヒグマが後退すると、森の中で鳥が囀る。水野はラインを素早くランニングさせる。ヒグマは右手に点滅ライト、左手に小型カメラを携え、再び黒に近づいていく。ヒグマ自身の影が黒の中心を遮り、人体が内在化されている倉重の作品の真髄が浮かび上がってくる。
      
ヒグマのカメラは横たわるネオン管をとらえる。その映像が黒に投影される。それは水平、斜頚、垂直と変化する。ヒグマは右足を上げると後退する。映像に発生する二つの水平の線に水野の音が熱く熔けていくような錯覚がする。
      
ヒグマは映像をフェードバックするライブに切り替える。水野のドローンのように響き渡る指弾きと共に、沸き立つ水のCGが斜線を描いていく。この水は水平に戻り、下部に鎮座する。
      
日食の惑星を跳び越すイメージのCGが黒に流れると、水野は柔らかい指弾きから深いボーイングへ移行する。映像が止まる。実際の太陽が堕ちていく。映像が再び動き出し、俯瞰する雲の動画のようなCGとなる。水平の沸き立つ水のCGには変化がない。
       
ヒグマは上下逆さに映したライブ映像を投影しながら、石段に近づいていく。水野は強い指弾きを行い、ヒグマのカメラは初めて森にある垂直のネオン管をとらえる。水平の沸き立つ水のCGは、蒼いインクが水に溶けていくような映像に変化する。水野が奏でる優しい曲は、公演の終了を意味していた。時計の針は、19時10分を指していた。
       
水野の音楽は透明な水だ。透明といっても精製されたそれではなく、鉱物や有機体を含む生きた水だ。
       
ヒグマの映像は現象であった。ここに虚実は含まれていない。そして認識も。実在を確認する必要がなかったのだ。それは倉重の作品と等価であるのかも知れない。