ヒグマ春夫の映像試論

覗き見の部屋

<覗き見の部屋>2004年2月27日〜4月11日・川崎市岡本太郎美術館/2004年12月14日〜2005年1月19日・テヘラン現代美術館

覗き見が共有されようとする瞬間

フィラデルフィア美術館でデュシャンの「落ちる水、照明用ガスが与えられたとせよ」を観た。もう随分と時間は経っているのだが、気になりだしていることがある。それは、覗いている自分自身が、覗いている瞬間誰かに見られているという錯覚である。覗き見というのは極めて個人的なことなのだが、「覗き見が共有されようとする瞬間」に出会った。

1995年、世田谷美術館市民ギャラリーでグループ展があり、「I and You」という作品を出品した。この作品は、ドイツ制の大きなゴミ入れを使ったものであった。そのゴミ入れの中には、小さなモニターとモニターを拡大する。大きなレンズを設置した。ゴミ入れの周りには、沢山の昆虫のイラストと都市の写真が35ミリのマウントに収められ片隅を白い糸で結び、あたかも昆虫が床を這い回っているかの様に100枚以上ちりばめてた。床のところどころには、2~3センチに切り刻んだ藁がちりばめてある。わたしは、観客がどんな対応をするのか遠くからじつと作品を眺めていた。ゴミ入れの蓋のところに直径2センチの穴があり、そこから沢山の観客が中を覗き込んでいた。「I and You」の様な中を覗いて観る作品は、佐倉市立美術館の企画展やIzumiwakuProjectの会場でも展示した。IzumiwakuProjectでは、ホームページやビデオ・カメラのリアルタイムの画像も組み込んだ。ビデオ・カメラで、覗いている観客の頭を撮る様に設置し、その映像を床のモニターに映し出した。覗き見している観客は、その様子がモニターに映されているにもかかわらず自分の目で確かめることは出来ない。覗き見している人は、耐えずどこかで誰かに覗かれている。

ギャラリー・スペース21に出品した覗き観の作品(1996年)は、「Transform of Duchanp」だった。このように覗き見の作品は、形態を変え至るところでインスタレーションをした。

1998年の夏には、三島町が主催する美術展「拡張する身体」に「のぞきみ」と題してインスタレーション出展した。この作品は、写真の瞬間的時間と映像の連続的時間の特性を生かした。

2003年「覗き見の部屋・次元移動の装置として」を、横浜赤レンガ倉庫1号館で発表した。その時のテーマは、デュシャンの「アンフラマン」だった。デュシャンのアンフラマンスには、46のメモがある。それによると「アンフラマンス」は知覚のちょっとしたズレとして捉えることができるかも知れない。が、アンフラマンスをそう捉えたとたんに違った知覚があらわれ、瞬間に違った知覚を感じることになる。それが「アンフラマンス」ではないかと思う。

<覗き見の部屋>2004年2月27日〜4月11日・川崎市岡本太郎美術館/1995年「I abd You」・世田谷美術館市民ギャラリー/Transform of Duchanp」・ギャラリースペース21/1996年7月21日〜8月4日「I abd You」・佐倉市美術館/1996年8月17日〜8月31日「I abd You」・杉並区立和泉中学校/2003年1月26日〜31日「覗き見の部屋・次元移動の装置として」・横浜赤レンガ倉庫1号館/2004年1月26日〜31日「アンフラマンスの試み」・ギャラリー汲美

2004年1月26日〜31日「アンフラマンスの試み」・ギャラリー汲美

『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・次元移動の装置として』あるいは自己言及のアート

デュシャンの「遺作」つまり『1.落ちた水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』は、「大ガラス」つまり『 花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも』の三次元ヴァージョンだと思われれる。「大ガラス」が、《花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも》なるものの二次元的提示であるのに対して。もっとも、観客の行 為を見て言えば、観客が遠近法でできた二次元平面を見るときに、三次元のものの転写を見ていると言える。そうであれば、原理的には、観客が三次元のものを見るとき四次元のものの転写を見ているとも言える。

 しかし、『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・・・・次元移動の装置として』は、これを逆転するかように見える。 覗き見の小穴から奥を覗くと、オーロラのような極薄のヴェールは揺れその奥でダンスがエロティックに踊られてい るのだが、どうも奥行きが欠落していて二次元的にしか見えないのである。デュシャンがエロティスムは三次元から 四次元へ次元移動するとき蝶番のような役割を果たすというが、ヒグマの場合が、これが逆になっているように 見える。なぜだろうか。

 ヒグマの場合、おそらく、覗き見るものにとってはその内部が逆光で照明されているため、ヴェールが二次元的に しか見えないだけでなく、その奥のダンスも二次元化してしか見えないのだろう。そうであるならば、ヒグマは、カ メラ等の遠近法的機材を用いずに三次元的振る舞いを三次元において二次元的に捉えたことになる。いったいこれを どう考えればよいのだろうか。アートとは、さらにはわれわれが見る世界とは、あるいは「われわれ」という世界が 、一種の表象でしかないと言っているのだろうか。そうであれば、ヒグマのアートは、きわめて自己言及的なアート というべきだろうか。 (広域芸術論、北山研二)

アンフラマンのいくつかのメモ

*「ビロードのズボン・・・(歩いているときの)二本の足のこすれ合いでできる軽い口笛のような音は、音が示すアンフラマンスな分離である」(聴覚的なアンフラマンス)。
*「(非常に近いところで)銃の発射音と標的上の弾痕の出現との間にアンフラマン ス」な分離がある(聴覚的・視覚的アンフラマンス)
*「(人が立ったばかりの)座席のぬくもりはアンフラマンスである」(視覚的・触覚 的アンフラマンス)
*「タバコの煙りがそれを吐き出す口と同じように匂うとき、二つの匂いはアンフラマ ンスによって結ばれる」(嗅覚的アンフラマンス)
*「目はアンフラマンスな現象を固定する」
*「人が眼差しに差し出すもの[眼差しに差し出すために役立つものすべて(領域のす べて)と、大衆の冷たい眼差し(ちらっと見て、たちどころに忘れてしまう)との間の交換。ほとんどの場合、この交換はアンフラマンスな分離の価値をもつ(いうならば、あるものが賞賛され、見つめられることが多ければ多いほど、アンフラマンスな分離は少なくなる)」
*水や溶けた鉛、クリームといった液体を同じ形の容器に入れ、その容器を回したときの「容器の内壁との接触の差異---ふたつのものの接触?フ差異はアンフラマンである。」
*「アンフラマンスな分離/同じ鋳型/で型打ちされたふたつの形は、たがいにアンフラマンスの分離価だけ異なる。/すべての”同一物”は、?「かに同一であっても、(そして同一であればあるほど)、アンフラマンスのこの分離的差異に近づく」
*「(瓜ふたつといった)言語的な一般化を都合よく受け入れてしまうよりも、ふたつの”同一物”を分離するアンフラマンスな間隔をとおり抜けようと努めることのほうがいい」。
アンフラマンスについて、いろんなひとの解釈を読んでみたのだが、アンフラマンスについての理解はできなかった。が、身体と映像を同居させた「覗き見の部屋・次元移動の装置として」のときは、言葉では理解できなかったアンフラマンスが解ったような気がした。
その後、銀座のギャラリー汲美で「覗き見の部屋」を展示した。その延長線上で、2004年、川崎市岡本太郎美術館でも「覗き見の部屋」を展示した。(2003年制作)