海べの知覚/Perception on a fractal line
海べの知覚:東日本大震災で海岸線は、甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。今、海べで何が起きているのか? 何が起ころうとしているのか? 何が起きたのか?
映像パフォーマンス・海べの知覚/ヒグマ春夫+杉山佳乃子(ダンス)
会場:ゆう桜ヶ丘ギャラリー
2016年11月18日(金)
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
このパフォーマンスは「遊 桜ヶ丘 現在進行形 野外展2016」の一環として行われた。この展覧会は36名の作品により構成され、主に野外展が中心となっている。広すぎず狭すぎない原峰公園野外展示では、互いの作品を干渉せずに、尚且つ自然環境に溶け込む質の高い作品群が立ち並んだ。
室内のギャラリーでは10月2日-10月26日を前期、10月28日-11月20日を後期として、展示替を行った。ヒグマは後期であり、達和子、小島顕一、SON YEON JOOと共に、壁面一枚周辺で展示した。四者による抽象性も見応えがあった。モニター三台を床置きし、貝殻やプラスティックといった浜辺で採集したオブジェを床面にインスタレーションした。
「海べの知覚」ヒグマの近年のテーマである。杉山佳乃子とのコラボレーションは、既にキッド・アイラック・アート・ホール5Fでの連続公演(10月12(水)-16日(日))が行われていた。11月26日(月)は同ホールで集大成となる公演が行われた。この、ゆう桜ヶ丘ギャラリーにおけるパフォーマンスは、その中間でも独立でもない不思議な公演だった。
ヒグマの展示は三台のモニターにそれぞれ浜辺での杉山のパフォーマンス、風景的CG、人間ともオブジェともつかない物質的CGが映し出され、その姿を実際のオブジェ越し、若しくはオブジェを背後に位置して見続けるのである。低い位置にモニターがあるので、我々は水面が水平に伸びるだけではなく、深く潜っていくことに思いを廻らせるのだ。
パフォーマンスは展示のままに、ライブ用のプロジェクター一台を追加して行われた。ヒグマは正面左に位置し、コントローラによってライブで映像と音楽を形成していく。立ち会う者達は左右に配置された椅子に座る。他に床置きの作品がなかったので、杉山はゆう桜ヶ丘ギャラリーのすべてを使用して踊ることが許された。
キッド5F、後のキッドホールよりもある意味で広く開放感に満ちていたので、杉山にとってこの空間でのダンスは自らを制御せず振り切れたのではないだろうか。後方壁面にライブ映像が大きく投影されて、公演が始まる。鼓動的電子音が鳴る。杉山は舞台右端で右手を伸ばし、瞬時に床を転がる。立ち上がり、両手を振り子のように水平に振る。
ヒグマは映像に原始生命体的フォルムのCGとライブを二重に写し、赤いライトで杉山を照らす。杉山は床を巡り、オブジェの中に身を投じて体を揺する。映像からライブが消え、CGのみとなる。杉山は指に引っ掛けた貝殻を落とし、床を全身で巡り、膝立ちとなる。一度ギャラリーから外れるが直ぐに戻り左目を右掌で覆い、遠くを見詰める。
映像は抽象画のような五色のCGが蠢く。杉山は緩やかに奥へ進んでいく。左足のみで立つと、杉山の影が映像のように見える。抽象画のようなCGは次第に色を失い、白と黒の世界へ転換していく。白、黒、黄の人影と原始生命体的CGへと変容する。点滅する緑のライトを背景に、杉山は右手を掲げて後方壁面左側に背をつける。
映像は、白と黒の月夜のようなCGへと変化する。杉山は掌を交互に壁面につけ、上半身を上下させる。振り返り、両手を前にして止まる。映像は黒地に人型に切り取られたフォルムが登場し、フォルムの中では赤と黄の靄のようなCGが沸き立つ。再び月夜のようなCGへと切り替わる。杉山は粘り強い動きを、ふと、解放する。
床前方で膝、腰、足の動きによってダンスを形成する。杉山が床を這う姿をヒグマは手持ちカメラで克明に捉え、映像として後方壁面に投影する。映像はこのライブと赤と黄の人型CGである。杉山は床に腰をつけ、水平に伸ばした両手を垂直に立てていく。ジェット音と鼓動音が混じって聴こえてくる。緑のライトが点滅する。
映像は再び月夜のようなCGに戻る。杉山は立ち上がり、低い位置で広いステップによるダンスを繰り広げる。舞台右隅で爪先立ちとなり、右手を水平に掲げていく。映像は赤と黄の人型CGとなる。杉山はしゃがみ、ブリッジから肩を撓らせながら前へ進む。映像は月夜のCG、赤い人物のようなCGで背景がモノクロの実写のCGへと転換する。
杉山は中央に立ち、フォルムを形成しては変容させる。ライブと浜辺の杉山のパフォーマンスが二重写しとなる。杉山は低い姿勢を取り、両手を床に滑らせて移動する。オブジェを掻き分け、足で散らす。映像は赤と黄の人型CGに変化する。風が吹くような電子音がパルスのように変容すると、杉山は掌で体を擦り、フォルムを形成しながら痙攣する。
映像は緑の人間ともオブジェともつかない物質的CGが大きく投影され、杉山は素早く床を移動し、爪先立ちになっても引き攣るようなダンスを続ける。服の首元を引き、顔と頭を隠す。映像はライブとピンクと白のCGの二重写しである。青いライトが点滅する。映像とライトが潰え、杉山は壁面を伝ってギャラリーを抜け、公演は終了する。
35分とは思えない濃密な時間であった。時間感覚を無化するヒグマの映像に対して、杉山は緩急をつけたダンス以前の行為によって応えた結果なのである。
fractal line/Perception of the sea
会期:2016年10月12(水)〜16日(日)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール 5階ギャラリー
映像インスタレーション:ヒグマ春夫+杉山佳乃子(ダンス)
報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
企画趣旨は「東日本大震災で海岸線は甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。今、海べで何が起きているのか?何が起ころうとしているのか?何が起きたのか?を検証しつつ都市空間にも視線を注いでみる」(フライヤより)。企画者のヒグマ春夫にとってのもう一つの主題は、連日変化する自らの映像と、毎日異なる演奏者によって、ダンサーの杉山佳乃子にどのような変化が起こるのかであろう。各公演45分。
ギャラリー入って右の壁面が正面となっている。床には、事前撮影が行われた九十九里浜で採集された貝殻、流木、プラスティックとビニールの塵が客席前左右に、なだらかに山積みされている。
壁面には三台の小型モニターが用意され、それぞれ固定の映像がループされる。左側壁面の映像は海辺での杉山のパフォーマンスと、ヒグマの新作である《光る人体》のCGが交互に流れる。後方壁面の映像はヒグマによる群衆的CGと、杉山がいない海辺の風景である。サーファー、原子力発電所、棄てられたモニターが印象的だ。右側の映像は浜辺で行われた杉山のダンスに終始しているが、早送り、スローモーションなどの加工が施されている。この三つの映像は、変化することがなかった。
ヒグマは連日、二台のプロジェクターによる同じ映像を後方壁面に展開した。基本的には同じ映像だが、日を重ねるにつれ変容を極めた。今回ヒグマは手持ちのライトを使用して、照明も担当した。映像と照明は光として変わりはない。二日目からは舞台前後に電球も出現した。ヒグマは明度を巧く操り、光と影、見えるものと見えないものを演出した。
また、ヒグマは杉山、演奏者と打ち合わせをしないどころか、演奏者には映像ではない「生の」杉山が出演することを曖昧にしていた。そのため、緊迫感溢れる公演が続出した。
12日(水)慶野由利子(Computer Music)
慶野は予め用意した曲に、即興を交えて演奏する。一貫して5拍子なのだが、様々な旋律とリズムの分割は複雑な様相を呈した。コンピュータミュージックは倍音が発生しない筈なのだが、その代わりに人間の耳で知覚限界の微細な音をふんだんに盛り込んでいるように私には思えた。ヒグマは俯瞰的な視線から撮影された波を加工した動画、森や川といった自然物のカラー録画、九十九里浜の記録映像、会場で撮影したライブ映像を素早く転換し、時間と場所の異相を引き出した。杉山は後方壁面でビニールを被り待機した。まるで自らも塵のようである。ビニールを引き裂き、いま、ここでしか行うことができないダンスを全身で行った。オープニングに相応しい展開だ。
fractal line/Perception of the sea
13日(木)田中悠宇吾(シタール)
田中はシタール演奏とその音楽をエフェクトした音素材の構築と、被災地福島で録音した歩く音、川の音、海の音を使用し、伴侶が詩を朗読した。田中の実際の福島への思いに対して、ヒグマは前の日の映像を保持しながらも、黙示録的イメージの写真と映像を多く挿入した。杉山もまた雨笠を頭に乗せつつ、ポージングとダンスを瞬時に入れ替えて「海辺」の出来事を流暢に語った。震災が多角的に捉えられ、時空が歪みながら未来へ進んでいく。田中達の自問する音とヒグマの衝撃的な映像に対して、杉山は綿々と今の自己を率直に示したのであった。これから私達は何をすればいいのか。被災地に直接関わらずとも、自己に懸命に生きるのも一つの追悼となろう。
fractal line/Perception of the sea
14日(金)吉田一夫(フルート)
吉田はJ・C・バッハの楽曲とブラジルの曲やリズムを組み合わせた即興を演奏した。シーツオブサウンドの名に相応しく、隙間なく敷詰められた音楽はフルートという楽器の特性でもある音量が、心地よいバランスを生み出した。ヒグマがこの音に対して合わせたかどうかは分からないが、比較的なだらかな映像が多かったように記憶する。森の情景とライブの組み合わせが主体となり、モニターとの組み合わせをゆっくりと楽しむことができた。それに対して杉山は舌を出し、羽織ったパーカーを落とす、掌と足先を重ねるといった、寓話的なマイムが目立った。上体を水平や垂直に伸びる姿勢を保持し、肘や膝、肩や足の付け根の細かい動きを敏感に見せたのだった。
15日(土)塩高和之(琵琶)
塩高が生み出すストロークは、正にロックのそれである。怒涛の如く押し寄せ、引いていく力にも多大なベクトルが誘発される。打ちのめされることはない。倒れる暇がないのだから。この波濤に対してヒグマは何事もないように、淡々とこれまで通り、加工された波、森の情景、ライブ映像を投影していく。ヒグマはこれまで以上に赤、青、緑の単色、各色のミックス、点滅など、手持ちの照明を多用した。杉山は冷静さを保ちながらも、激しいダンスというよりパフォーマンスを行った。静かなパフォーマンスよりもダンスと言い換えることもできよう。このダンスとパフォーマンスの垣根を壊すのが、杉山の課題である。何れにせよ、三者による熱狂は半端ではなかった。
16日(日)翠川敬基(チェロ)
翠川のチェロは即興を交えながらも、全体で一つの曲を演奏したのだと私は解釈している。それは壮大な叙事詩であり、果てしない過去から未来へ繋がる一本の道であろう。始まりも終わりも存在しない。しかし、唯、流れていくのではなく、紆余曲折を経た、一人の人間の生き様にも匹敵するであろう。それに対してヒグマの映像はこれまでにないほどの激しさであった。様々なイメージを連想させずに投影し、CGは実写に劣らないほど苛烈を極めた。杉山はその間を緩やかに漂った。この日のその姿は、まるで巫女のような仲介者であった。自らを打ち消すことにこそ自らの存在理由が明確になることを示す舞台であった。杉山の今後の行く末はない。踊り続けるのみである。
Higuma Haruo(Artist)
映像が介在する表現に固執し「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」を継続中。他にコラボレーション企画「ACKid」、「連鎖する日常/あるいは非日常・展」がある。Art Meeting 2016-田人の森に遊ぶ- を契機に「映像インスタレーション/海べの知覚」を思索中。