fractal line 海べの知覚/HIGUMA HARUO

海べの知覚/Perception on a fractal line

東日本大震災で海岸線は、甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。
今、海べで何が起きているのか?
     何が起ころうとしているのか?
     何が起きたのか?
           
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.77
日時:2016年4月25日(月)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
ゲスト・琵琶:塩高和之、尺八:田中黎山、ダンス:小松睦、照明:早川誠司

「映像パラダイムシフト」は、映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、 といったようなことを追究しています。

Placeholder image

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台には何もない。右奥に琵琶のみが置かれている。ヒグマは客席前方右側に席を用意している。後方壁面左に映像が投影される。サイケデリックなCGが渦巻く中、中央から小窓が出現し、草原の中の家の写真が徐々に拡大される。
水面の加工した実写映像に変わり、奏者二人が入場する。後方壁面右にも映像が投影される。モノクロの風景の動画である。極端なスローモーションが、写真と誤認させる。道とも海とも見える映像が持つ雰囲気は、映像が持つ確固たる力を感じさせる。
「海べの知覚・試作-1/2016年4月25日/今、海べで何が起きているか?/何が起ころうとしているか?/何が起きたのか?」という白抜きのテロップが流れる。海辺をあえて「海べ」としていることによって、身近な印象を見る者に与える。
我々は海辺で何が起きているか、知る由もない。それによって何が起こってしまうのか、未来を予兆できない。何が起きたのかという真実も知らされていない。微かな不安を想起しても、何もすることができない。しかし、考えることによって何かが変わる。
塩高は琵琶の弦を撥でスクラッチする。塩高は伝統技法に長けているからこそ、琵琶をギターのように独自の方法で演奏し、ロックやフリージャズ、現代音楽のような要素を散りばめていく。それに応える琵琶という楽器の屈強さに私は感銘を受ける。
後方壁面右には公園の写真が中央から拡大され、下の色面を覆い隠す。田中が尺八により息吹を放つ。右の写真は小さくなって消える。代わりに小松のダンスの実写動画となる。小松は砂に爪先で線を描いていく。

Placeholder image


田中の尺八によって描かれた水墨画的風景に、塩高の放つ雷電のようなパルスが唸りを上げる。音楽が映像的であると感じるのは、映像が物語のような音楽性を帯びていることに由来する。映像はCGという無機と海辺の有機が入り混じる。
塩高は撥を使い分け、琵琶に対してアタックに強弱を交える。田中の尺八が止まる。塩高は、自らが形成した静謐なフレーズを喧噪的に破壊する演奏を繰り返す。後方壁面の右の実写動画は早送りで、左の水面的CGには横の波線二本が横切る。
恐らくヒグマはライブで映像の速度をコントロールしているのであろう。右の映像は従来の速度に戻る。映像の小松は両手を広げる。左の映像は家庭の物置場の写真が色面の上で拡大しては縮小する。
突如、小松が舞台に上がる。右の実写動画と同じワンピースを着ている。小松は水が入った透明なボトルを手に持っている。塩高は撥の背で琵琶のブリッジを規則的に叩く。再開した田中の尺八は、謡とも語りにも聴こえるフレーズを操る。 小松は後方壁面から前に向かい、右掌でボトルの底を押し、左上腕部から肩、首筋へとボトルを移動させる。右掌を上、つまりボトルを逆さまにして腹部付近に支える。塩高と田中はまるでJ・コルトレーンの《アセンション》のような演奏となる。
後方壁面の左の映像は、室内で握り締められたボトルの写真が色面の上に拡大されては縮小する。左の実写動画はスローモーションで投影される。実体の小松は舞台中央にボトルを置く。塩高と田中の演奏に秩序が生れる。

Placeholder image


小松の爪先が交互に床を撫でる。塩高の琵琶はノアの箱舟を誘った洪水のように唸りを上げる。田中の尺八は、降り頻る雨を連想させる。しかし二人の演奏は決して情景的ではなく、象徴的である。
小松は四足で、床にあるボトルに干渉する展開となる。右の実写録画はコマ送り、左のCGは水面のみとなる。田中の尺八が止まると小松は立ち上がりゆっくりと舞台を巡る。ヒグマは後方壁面右の実写動画を自己の位置にある赤外線カメラからのライブに切り替える。
小松がプロジェクターを横切る度に生れる影が美しい。小松は旋廻し、テンポを落とした霧のような琵琶と風の如き尺八の間を縫っていく。演奏のビートが激しくなる。後方壁面左は家族写真が拡大されては縮小され、右は実写動画に戻る。 小松は頭部を壁面につけて揺らぎ、倒れる。中央のボトルに薄く照明が当たり、小松は近づく。小松はボトルの蓋を開け、右手に中の水を掬って口に含む。腕と足に水を塗り、蓋をして逆さに床へ置く。
二人は音を空間に染み込ませていく。小松は客席を向き、髪を解き、両手を大きく広げる。腕を大きく振りながら踊る。塩高はスクラッチしつつ低い声で尺八のフレーズを歌う。映像はボトルの水、水面、CGの水のイメージと多様に展開する。
映像は淡々と続く。小松は後方壁面で沈黙する。映像が潰え、演奏が終ると小松が客席に背を向け、公演は終了する。静寂でありながらも滾々と湧き出す水が炎のように燃え盛った劇的な55分間であった。

Placeholder image

北里義之・批評/link


4月25日(月)明大前キッド1Fホールにて、琵琶奏者の塩高和之さんをゲストに迎えた「ビグマ春夫の映像パラダイムシフト vol.77」を観劇。事前のクレジットはありませんでしたが、公演の内容は、映像と琵琶演奏の即興的なコラボではなく、演奏方ではもうひとり尺八の田中黎山さんが加わり、さらに映像のなかに登場するダンスの小松睦さんが参加する形で、9月の<ACKid2016>で公演される「フラクタルライン・海べの知覚」に向けての実験的かつクリエーション作業的公演「海べの知覚・試作-1」となりました。「海べの知覚」のテーマは、「東日本大震災で太平洋側の海岸線は、甚大な被害を受けた。あれから5年の歳月が経った。その海べの知覚は、どのように変化したのか。そして現在どんな状態にあるのか。海べに身を置き、海べの知覚を感じ表現することで、そこに出会ったことのない未知の人たちに伝える試み」とのこと。映像は二種類が用意され、下手のコーナーには、水面、水が半分入ったボトル、赤、青、緑の原色で影をつけられたフラクタル模様などが、また正面のホリゾント壁には、ダンサー小松睦さんがいる曇天の日の海べの風景が投影され、「海べの知覚・試作-1/2016年4月25日/今、海べで何が起きているか?/何が起ころうとしているか?/何が起きたのか?」の文字がインサートされました。


Placeholder image

これまで映像展に登場した、人気のない、ものさびしい海岸線の風景には、公演直前の撮影であることを示す日付のクレジットが付されていたのですが、これは映像作家にとって、東日本大震災や原発の過酷事故が、なによりも経過していく、あるいは更新されていく時間の問題であることを示しています。あらためて見ると「海べの知覚」には(少なくとも)3つの時間が重ねられているようです。ひとつは地震や津波の自然災害による変化(あるいは災害からの回復過程)、もうひとつは放射能のうち大気中に大量に放出されたセシウム137の半減期が30年に及ぶという人為災害による環境の変化(あるいは被曝による遺伝子切断という不可視の身体的事件)、そしてそれらの時間を超え出てゆく、私たちの意識にはとらえることのできない生成変化しつづける自然の永遠性で、これらの時間が、災害を直接映し出すことのない「海べ」の風景に折り重ねられたところに、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』(1961年)の神秘性、J.G.バラード『溺れた巨人』(1971年)の災厄性、ミシェル・セール『生成』(1982年)の複雑系など、「海べ」のイメージの歴史が喚起されてきます。例えば、水面の映像に重ねられたフラクタル図形は、生成変化をやめることのないセールの「海べ」につながるものでしょう。

風景としての「海べ」は、具体的な撮影の日付をもつことでイメージの歴史から切り離され、観客の前に引き出されてくるのですが、そればかりでなく、さらに積極的に、映像のなかで踊るダンサーと映像の外で(ライヴで)踊るダンサーのシンクロナイズする身体を介して、観客を生々しい感覚をともなう “この” 砂浜のただなかに引き出します。すなわち、映像に登場する水の入ったボトルと同じ形のものを両手に大切そうに持って登場した小松睦さんは、ボトルをそっと床に置いてその周囲を回ると、腰をおろして水をすくい、オイルを塗るようにして腕をさすり、足についた砂を軽くはらうことで、会場を砂浜へと変貌させたのでした。いつものようにオブジェも置かず、上手下手に用意された椅子にミュージシャンが座っただけの会場は、中央に広く開いたスペースが(映像投影のない)身体のための幻想空間になったのでした。ヒグマさんの映像操作によってふたつの身体は差別化され、砂浜を動く映像の小松さんは、ある瞬間にはスローモーションで、またある瞬間には高速度で動く機械的処理を施され、動きの日常性を剥奪されていました。最後に、ステージの奥からセンターに這って出てきた小松さんが、ボトルのふたを開け、水を飲み、足を濡らす場面は、「海べ」に対する私たちの感覚をいっそう鋭くするものだったと思います。

このところ映像展の常連となっている小松睦さんのダンスは、二種類のスクリーンの枠内に入ったり、プロジェクターの前に立って映像にヒトカタの影を投げたり、尺八奏者のうしろを抜けて下手の柱の暗闇に張りついたり、特に、砂まみれになって横たわるダンサーをカメラがクローズアップする映像の終盤では、砂浜にいる自分と似た姿勢で床を前後に動いたりするなど、映像をダンス譜としても使いながら、ステージに交錯する光のどこに身を置けば踊りが展開するかを知り抜いた、みごとに個性的なものだったと思います。なかでも、前半の舞うような動きから、ジャンプし回転するダンスへの転調(あるいは破調)を見せた場面で、琵琶と尺八によるホリゾンタルな音の動きに沿う舞いの形から、違和的な身体が立ちあらわれてくるスリリングな時間帯は、ことのほか印象的なものでした。映像、音楽、身体のどれも欠くことのできない公演のなかで、この晩のダンス・パフォーマンスは、映像の可能性を開こうとするシリーズ公演が、「海べの知覚」になぜ身体の参加を求めているかを実感させたという意味で、大きな達成であり成果だったと思います。

塩高和之さんの琵琶と田中黎山さんの尺八による即興アンサンブルは、東日本大震災以後の感覚の変容を「海べ」において意識化しようとする本公演において、聴き手の感情をかきたて、出来事を内面から立ちあげるという重要な役割を担っていたように思います。終盤で尺八が声を使う場面がありましたが、そこに言葉はなく、響きを際立たせるだけで堅固な形式をもたないホリゾンタルな演奏のありようは、映像が映し出す海岸線や、(想像の砂浜を)水平に動いていくダンサーの身体とシンクロするものでした。とはいえ、強度のある響きは、それが怒りの感情なのか絶望の感情なのか語られることのないまま、おそらくは他でもない聴き手の内面を反映することになるのだと思います。曇天のした、映像のなかで波が打ち寄せる灰色の海べに立ち、強風に衣装をたなびかせながら全身で世界を受けとめるダンサーの姿は、踊るともなく、すでになにかを予兆しているようでした。(福島県出身のドラマー長沢哲さんが早くから語られていたヴィジョンを参照すれば)「海べの知覚」は変化したのではなく、私たちはすでに崩壊感覚のなかにあり、残された断片からもう一度風景を再構成しなくてはならないということではないでしょうか。■





映像インスタレーション/海べの知覚

海べの知覚:東日本大震災で海岸線は、甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。今、海べで何が起きているのか? 何が起ころうとしているのか? 何が起きたのか?

Placeholder image
映像パフォーマンス・海べの知覚/ヒグマ春夫+杉山佳乃子(ダンス)
会場:ゆう桜ヶ丘ギャラリー
2016年11月18日(金)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
このパフォーマンスは「遊 桜ヶ丘 現在進行形 野外展2016」の一環として行われた。この展覧会は36名の作品により構成され、主に野外展が中心となっている。広すぎず狭すぎない原峰公園野外展示では、互いの作品を干渉せずに、尚且つ自然環境に溶け込む質の高い作品群が立ち並んだ。

室内のギャラリーでは10月2日-10月26日を前期、10月28日-11月20日を後期として、展示替を行った。ヒグマは後期であり、達和子、小島顕一、SON YEON JOOと共に、壁面一枚周辺で展示した。四者による抽象性も見応えがあった。モニター三台を床置きし、貝殻やプラスティックといった浜辺で採集したオブジェを床面にインスタレーションした。

「海べの知覚」ヒグマの近年のテーマである。杉山佳乃子とのコラボレーションは、既にキッド・アイラック・アート・ホール5Fでの連続公演(10月12(水)-16日(日))が行われていた。11月26日(月)は同ホールで集大成となる公演が行われた。この、ゆう桜ヶ丘ギャラリーにおけるパフォーマンスは、その中間でも独立でもない不思議な公演だった。

ヒグマの展示は三台のモニターにそれぞれ浜辺での杉山のパフォーマンス、風景的CG、人間ともオブジェともつかない物質的CGが映し出され、その姿を実際のオブジェ越し、若しくはオブジェを背後に位置して見続けるのである。低い位置にモニターがあるので、我々は水面が水平に伸びるだけではなく、深く潜っていくことに思いを廻らせるのだ。

パフォーマンスは展示のままに、ライブ用のプロジェクター一台を追加して行われた。ヒグマは正面左に位置し、コントローラによってライブで映像と音楽を形成していく。立ち会う者達は左右に配置された椅子に座る。他に床置きの作品がなかったので、杉山はゆう桜ヶ丘ギャラリーのすべてを使用して踊ることが許された。

キッド5F、後のキッドホールよりもある意味で広く開放感に満ちていたので、杉山にとってこの空間でのダンスは自らを制御せず振り切れたのではないだろうか。後方壁面にライブ映像が大きく投影されて、公演が始まる。鼓動的電子音が鳴る。杉山は舞台右端で右手を伸ばし、瞬時に床を転がる。立ち上がり、両手を振り子のように水平に振る。

ヒグマは映像に原始生命体的フォルムのCGとライブを二重に写し、赤いライトで杉山を照らす。杉山は床を巡り、オブジェの中に身を投じて体を揺する。映像からライブが消え、CGのみとなる。杉山は指に引っ掛けた貝殻を落とし、床を全身で巡り、膝立ちとなる。一度ギャラリーから外れるが直ぐに戻り左目を右掌で覆い、遠くを見詰める。

映像は抽象画のような五色のCGが蠢く。杉山は緩やかに奥へ進んでいく。左足のみで立つと、杉山の影が映像のように見える。抽象画のようなCGは次第に色を失い、白と黒の世界へ転換していく。白、黒、黄の人影と原始生命体的CGへと変容する。点滅する緑のライトを背景に、杉山は右手を掲げて後方壁面左側に背をつける。

映像は、白と黒の月夜のようなCGへと変化する。杉山は掌を交互に壁面につけ、上半身を上下させる。振り返り、両手を前にして止まる。映像は黒地に人型に切り取られたフォルムが登場し、フォルムの中では赤と黄の靄のようなCGが沸き立つ。再び月夜のようなCGへと切り替わる。杉山は粘り強い動きを、ふと、解放する。

床前方で膝、腰、足の動きによってダンスを形成する。杉山が床を這う姿をヒグマは手持ちカメラで克明に捉え、映像として後方壁面に投影する。映像はこのライブと赤と黄の人型CGである。杉山は床に腰をつけ、水平に伸ばした両手を垂直に立てていく。ジェット音と鼓動音が混じって聴こえてくる。緑のライトが点滅する。

映像は再び月夜のようなCGに戻る。杉山は立ち上がり、低い位置で広いステップによるダンスを繰り広げる。舞台右隅で爪先立ちとなり、右手を水平に掲げていく。映像は赤と黄の人型CGとなる。杉山はしゃがみ、ブリッジから肩を撓らせながら前へ進む。映像は月夜のCG、赤い人物のようなCGで背景がモノクロの実写のCGへと転換する。

杉山は中央に立ち、フォルムを形成しては変容させる。ライブと浜辺の杉山のパフォーマンスが二重写しとなる。杉山は低い姿勢を取り、両手を床に滑らせて移動する。オブジェを掻き分け、足で散らす。映像は赤と黄の人型CGに変化する。風が吹くような電子音がパルスのように変容すると、杉山は掌で体を擦り、フォルムを形成しながら痙攣する。

映像は緑の人間ともオブジェともつかない物質的CGが大きく投影され、杉山は素早く床を移動し、爪先立ちになっても引き攣るようなダンスを続ける。服の首元を引き、顔と頭を隠す。映像はライブとピンクと白のCGの二重写しである。青いライトが点滅する。映像とライトが潰え、杉山は壁面を伝ってギャラリーを抜け、公演は終了する。

35分とは思えない濃密な時間であった。時間感覚を無化するヒグマの映像に対して、杉山は緩急をつけたダンス以前の行為によって応えた結果なのである。



会期:2016年10月12(水)〜16日(日)
会場:キッド・アイラック・アート・ホール 5階ギャラリー
映像インスタレーション:ヒグマ春夫+杉山佳乃子(ダンス)


報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
企画趣旨は「東日本大震災で海岸線は甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。今、海べで何が起きているのか?何が起ころうとしているのか?何が起きたのか?を検証しつつ都市空間にも視線を注いでみる」(フライヤより)。企画者のヒグマ春夫にとってのもう一つの主題は、連日変化する自らの映像と、毎日異なる演奏者によって、ダンサーの杉山佳乃子にどのような変化が起こるのかであろう。各公演45分。

ギャラリー入って右の壁面が正面となっている。床には、事前撮影が行われた九十九里浜で採集された貝殻、流木、プラスティックとビニールの塵が客席前左右に、なだらかに山積みされている。

壁面には三台の小型モニターが用意され、それぞれ固定の映像がループされる。左側壁面の映像は海辺での杉山のパフォーマンスと、ヒグマの新作である《光る人体》のCGが交互に流れる。後方壁面の映像はヒグマによる群衆的CGと、杉山がいない海辺の風景である。サーファー、原子力発電所、棄てられたモニターが印象的だ。右側の映像は浜辺で行われた杉山のダンスに終始しているが、早送り、スローモーションなどの加工が施されている。この三つの映像は、変化することがなかった。

ヒグマは連日、二台のプロジェクターによる同じ映像を後方壁面に展開した。基本的には同じ映像だが、日を重ねるにつれ変容を極めた。今回ヒグマは手持ちのライトを使用して、照明も担当した。映像と照明は光として変わりはない。二日目からは舞台前後に電球も出現した。ヒグマは明度を巧く操り、光と影、見えるものと見えないものを演出した。

また、ヒグマは杉山、演奏者と打ち合わせをしないどころか、演奏者には映像ではない「生の」杉山が出演することを曖昧にしていた。そのため、緊迫感溢れる公演が続出した。


Placeholder image 12日(水)慶野由利子(Computer Music)
慶野は予め用意した曲に、即興を交えて演奏する。一貫して5拍子なのだが、様々な旋律とリズムの分割は複雑な様相を呈した。コンピュータミュージックは倍音が発生しない筈なのだが、その代わりに人間の耳で知覚限界の微細な音をふんだんに盛り込んでいるように私には思えた。ヒグマは俯瞰的な視線から撮影された波を加工した動画、森や川といった自然物のカラー録画、九十九里浜の記録映像、会場で撮影したライブ映像を素早く転換し、時間と場所の異相を引き出した。杉山は後方壁面でビニールを被り待機した。まるで自らも塵のようである。ビニールを引き裂き、いま、ここでしか行うことができないダンスを全身で行った。オープニングに相応しい展開だ。

Placeholder image 13日(木)田中悠宇吾(シタール)
田中はシタール演奏とその音楽をエフェクトした音素材の構築と、被災地福島で録音した歩く音、川の音、海の音を使用し、伴侶が詩を朗読した。田中の実際の福島への思いに対して、ヒグマは前の日の映像を保持しながらも、黙示録的イメージの写真と映像を多く挿入した。杉山もまた雨笠を頭に乗せつつ、ポージングとダンスを瞬時に入れ替えて「海辺」の出来事を流暢に語った。震災が多角的に捉えられ、時空が歪みながら未来へ進んでいく。田中達の自問する音とヒグマの衝撃的な映像に対して、杉山は綿々と今の自己を率直に示したのであった。これから私達は何をすればいいのか。被災地に直接関わらずとも、自己に懸命に生きるのも一つの追悼となろう。

Placeholder image 14日(金)吉田一夫(フルート)
吉田はJ・C・バッハの楽曲とブラジルの曲やリズムを組み合わせた即興を演奏した。シーツオブサウンドの名に相応しく、隙間なく敷詰められた音楽はフルートという楽器の特性でもある音量が、心地よいバランスを生み出した。ヒグマがこの音に対して合わせたかどうかは分からないが、比較的なだらかな映像が多かったように記憶する。森の情景とライブの組み合わせが主体となり、モニターとの組み合わせをゆっくりと楽しむことができた。それに対して杉山は舌を出し、羽織ったパーカーを落とす、掌と足先を重ねるといった、寓話的なマイムが目立った。上体を水平や垂直に伸びる姿勢を保持し、肘や膝、肩や足の付け根の細かい動きを敏感に見せたのだった。

Placeholder image 15日(土)塩高和之(琵琶)
塩高が生み出すストロークは、正にロックのそれである。怒涛の如く押し寄せ、引いていく力にも多大なベクトルが誘発される。打ちのめされることはない。倒れる暇がないのだから。この波濤に対してヒグマは何事もないように、淡々とこれまで通り、加工された波、森の情景、ライブ映像を投影していく。ヒグマはこれまで以上に赤、青、緑の単色、各色のミックス、点滅など、手持ちの照明を多用した。杉山は冷静さを保ちながらも、激しいダンスというよりパフォーマンスを行った。静かなパフォーマンスよりもダンスと言い換えることもできよう。このダンスとパフォーマンスの垣根を壊すのが、杉山の課題である。何れにせよ、三者による熱狂は半端ではなかった。

Placeholder image 16日(日)翠川敬基(チェロ)
翠川のチェロは即興を交えながらも、全体で一つの曲を演奏したのだと私は解釈している。それは壮大な叙事詩であり、果てしない過去から未来へ繋がる一本の道であろう。始まりも終わりも存在しない。しかし、唯、流れていくのではなく、紆余曲折を経た、一人の人間の生き様にも匹敵するであろう。それに対してヒグマの映像はこれまでにないほどの激しさであった。様々なイメージを連想させずに投影し、CGは実写に劣らないほど苛烈を極めた。杉山はその間を緩やかに漂った。この日のその姿は、まるで巫女のような仲介者であった。自らを打ち消すことにこそ自らの存在理由が明確になることを示す舞台であった。杉山の今後の行く末はない。踊り続けるのみである。

Placeholder image
Placeholder image


Higuma Haruo(Artist)
映像が介在する表現に固執し「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」を継続中。他にコラボレーション企画「ACKid」、「連鎖する日常/あるいは非日常・展」がある。Art Meeting 2016-田人の森に遊ぶ- を契機に「映像インスタレーション/海べの知覚」を思索中。