吉 本 義 人 彫刻展
2012年8月13日[月]~9月20日[木] 8:30~20:00【最終日は16:00まで(土日祝日休み)】
8月24日[金]18:00
オープニング・レセプション&映像ダンスパフォーマンス・長岡ゆり×ヒグマ春夫
会場:天王洲セントラルタワー1F アートホール
   140-0002東京都品川区東品川2-2-24 電話:03-5462-8811 協力:中川特殊鋼株式会社

吉本義人彫刻展 映像ダンスパフォーマンス 2012/08/24 Placeholder image
宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

天王洲セントラルタワー1Fアートホールに、吉本義人の《記憶としての構造》(265H×360W×340Dcm/ステンレススチール/2009年)が出 現した。近代的な建築物内に、ギリシャのアクロポリス的な形態の彫刻が漲る。そしてこの彫刻が人肌のような有機的なディテールを携えていることに気が付 く。

《三つの楕円》(320H×690W×690Dcm/ステンレススチール/2012年)は、野外展示場に鎮座する。まるで初めからここに存在しているかの如く気配を消し、ケヤキ一本を包み込んで風景と同化している。パフォーマンスは、ここで繰り広げられた。

18時、吉本が挨拶と共に2009年に制作された《三つの楕円》は今回の展示空間により高さを50cm付け足したと作品を解説し、日が落ちる時間帯にパフォーマンスを行いたいから、もう少し待ってくれと言う。

確かに良く晴れた真夏の東京の18時には、まだ日がよく伸びている。ヒグマ春夫は既に、客席のパラソルの内側に二台のプロジェクターを用いて暗い深海に泳 ぐ10匹ほどの白い原始生物に見えるCGを投影し、2003年にヒグマが録音した《10万年前の氷が弾ける音》を流している。

プラスティックが弾け飛ぶような音が微かに響き渡る中、白い着物姿の長岡ゆりは作品と川の間に立ち尽くし、18時15分、公演が始まる。長岡の踵が、膝が、腰が、捩れていく。強く吹く風を一歩一歩切り裂いて、作品に向かって歩いていくのだ。

長岡の右手が自らを先導する。この5m程の距離が、果てしない荒野に見えてならない。長岡は作品に背を向け、両手を広げながらも歩を止めない。右手にはいつしか音叉が握られている。

パラソル内のヒグマの映像は、たゆたう白い線が横に並んでは消失するCGに変化する。長岡は作品中央に蹲り、立ち上がり、音叉を作品にぶつけていく。映像は原始生物的CGに戻る。

長岡は揺らめきながら作品を通過する。噴水と作品の間に佇みながら、全身から発する視線で捉えた作品を自らの体の中へ織り込んで行く。ヒグマの映像の原始生物が、赤、青、黄に染まっていく。

長岡は歌いつつ、肩から生み出した潮流で全身に巻き込んでいく。ヒグマの映像の原始生物は溶けつつも高速に動き出し、ドットというよりも原子体に変貌する。長岡が噴水の縁をなぞる動きに呼応するように、ヒグマの映像は水銀が表面張力を起こすようなCGへ変化する。

CGは水銀にも、赤と黄緑と白の炎のようにも見える。やがて映像は大量の水の原子的粒のCGが波のモノクロ実写映像と融合し、赤と青という原色が生み出されていく。長岡は水を完全に支配し、噴水に仏像のように腰をかける。

映像は球体に矩形が重なっては消滅するCGから、赤青黄の玉が飛び交うCGへと変化する。噴水に立ち上がる長岡に、ヒグマは一台のプロジェクターを向ける。まだ完全な闇は訪れていない。映像が見えるか見えないかなどは、ヒグマにとって問題ではないのだ。

長岡は噴水から離れ再び作品へ向かい、ヒノキに頭、側面、上半身、背中と当てる。ヒグマは長岡の移動をプロジェクターの光で追う。映像は白黒の斑なCGとなる。長岡はヒノキを離れ、音叉を鳴らして耳に当てながら歩み続ける。

CGは鈍い青の光を放ち、長岡がパラソルを経由して前にでると、30分程の公演は終了する。

長岡は海、川、コンクリート、建築物、作品、ヒノキ、水、ヒグマの映像という物質を体に取り入れて変容するのではなく、それぞれの物質に自らを拡散すると いう舞踏を見せてくれた。この長岡の技に対してヒグマは映像を光と化し、吉本の作品と長岡の舞踏を徹底的に客観視した。吉本の作品は物質という概念から解 き放たれて、公演が終了しても静かに佇み続ける。人工物、自然物の相違は何かを考える公演であった。

この三者による公演は当初、2011年3月12日、佐野市文化会館で開催された「吉本義人 彫刻展」の会場で行われる筈であった。時間、場所、作品に変化 が訪れても、公演は必ず行われるのである。この事実は、我々が今後生きる上で、格段の意義が生じていると言っても過言ではあるまい。