next[コラボレーションの経験 1973→]Vol.1 ヒグマ春夫
●●● [コラボレーションの経験 1973→]・・・ヒグマ春夫
 時・空間を共生・共有・共創する美術

煙草が素材となって、わたしの表現手法に入り込んできた具体的な記憶は定かではないのだが、1972年は、石油ショックのはじまりだった。1971年までの高度経済成長の波が崩れ去るかのごとく、質素革命へと社会の波が動きだしていたときだった。
 はじめに、コラボレーションを試みたのは、三人の美術家とだった。「こんにちは たばこ」展と題した展覧会は、三人の表現手法の違う作家が、同じタイトルを共有して空間を埋めた。岡本章は、たばこを素材に撮影した。その中に一升瓶に詰められた「たばこ」の写真もあった。小林はくどうは、画廊にビデオカメラを設置し、観客ひとり一人にたばこを吸ってもらいビデオにおさめていた。その吸い殻はヒグマの一升瓶に入れた。ヒグマ春夫は、たばこの吸い殻を拾い集め、32本の透明な一升瓶に詰め、オブジェとして呈示した。

 
「こんにちは たばこ」展
日時:1973年11月12日〜18日 am11:00〜pm7:00
会場:村松画廊
出品作家:岡本章、小林はくどう、ヒグマ春夫


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 我々の認識しているこの世界・・・・・・・。
 或る者にとっては平穏な、また或る者には破綻を来し、繕うべくもないこの世界・・・・・。
 日常性は世界への認識を固定化の方向へと押しやり、無意識のうちに、我々を滅びへの不安から遠ざけようとする。明日が再び巡ってくることは少しも疑い得ぬからこそ、我々は、深い眠りへと身を任せることができるのだ。明日もまた車は動き、店は開き、人々は往来を往きかうことであろう。
 生きるということ・・・・それは一面に於いて、世界を固定的に捉えることによって初めて可能となる営みではある。しかし果たして、このように捉えたものが、真の世界なのであろうか。
atma bhava(人間を人間ならしめ、人間の一切を主宰するものの存在、生成)の問題を一つの契機として、我々もまた人類のこの永遠の哲学的思索に加わろう。
 atman(個人の精神原理)の問題は、karuma(業)samas罫e(輪廻)、dharma(法)、という、一連のインド的思索の中から生まれ出たものであり、ウバニシャド以来、インド哲学の重要な問題であった。我々はそこで、一切のものの背後にあるものに対する、一元説、二元説、多元説、無我説等々の様々な思索のあとを発見するであろう。自らの眼の奥にも、日常性を突き破った多様な世界が映し出されるはずであ る。
 今回のイベントはミックスド・メディア的な方法によって、オブジェ、照明、映像、音響を用いる。
 限りなく生成流転し続ける現象は今、流れゆく意識によって刻々と捉えなおされていく。それらの瞬間の連鎖を造形化したものがオブジェであり、映像(VTR)は記録として導入される。音はこれらの視覚的空間をシンボライズし、また同時にライブパフォーマンスを媒介として瞬間のイマジネーションを収束、拡散させる。

 
atma bhava
日時:1974年9月9日(月)〜14日(土) pm2:00〜pm9:00(ライブ・パフォーマンスあり)
会場:ギャラリー・マット・グロッソ
企画制作:ヒグマ春夫(造形、ビデオ、ライブ演奏)
     上原和夫(音響、ライブ演奏)
     石居和夫(音響、ライブ演奏)
     木村潔(タイトル、イメージ構成)
協賛:STUDIO VIVANT(電子音響ワークショップ)


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atma bhava
今日でもパフォーマンスは、いろんなところでいろんなひとが行っているが、80年代はパフォーマンスの全盛期だったのかも知れない。わたしが最初にパフォーマンスを始めたのは70年代だった。1984年に福島県桧枝岐村で第1回のパフォーマンス・フェスティバルが開催され、わたしもそのフェスティバルに参加した。その後大きな影響を受けることになる。9月から駒込のサウンド・ファクトリでパフォーマンスのシリーズを企画した。


パフォーマンス・シリーズ[VIDEO FORUM]
構成:ヒグマ春夫 
会場:サウンド・ファクトリー

 1984年9月、VIDEO FORUMを企画し、その空間に音楽、舞踊、美術、評論、映像等の作家をゲストに招いて、ビデオ・システムの可能性を探るパフォーマンスを展開した。
 また1986年からは、パフォーマンス講座として、ビデオ・システムを使ったパフォーマンスを展開しながら、その様子を批評家が言語化していくという作業も試みた。その中でわたしは、ビデオに付いて、或いはパフォーマンスということに付いて様々な体験をした。その記憶はわたしの身体の一部となっている。サウンド・ファクトリーで体験したわたしの身体記憶は、サウンド・ファクトリーの空間から巣立ち、異国の地でその記憶を紐解くことになる。日本と違った他の国でパフォーマンスを体験したことによって、わたしの身体は、また新たな方向性を求めるようになった。それは映像環境をもう一度根本から捉えなおすことだっった。
 VIDEO FORUMは、1部から4部に分けて構成した。1部は「音と映像」。2部は「美術と映像」。3部は「身体と映像」。4部は「写真と映像」だった。映像は、わたしが担当し、音、美術、身体、写真は、その道の専門家にゲスト出演をしてもらった。ここで考えていたことは、コラボレーションの可能性だった。

 
第1部「音と映像」映像:ヒグマ春夫

1984年9月6日
ゲスト:丸山亮(作曲家)


1984年9月7日
ゲスト:吉村弘(作曲家)


1984年10月12日
ゲスト:仁科きぬ子(ヴォーカルパフォーマンス)


1984年11月8日
ゲスト:丸山亮(作曲家)


 音とパフォーマンス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸山亮(音楽家)
 探海にもぐる潜水艦の中は水圧につぶされないようにヘリウムガスを高圧でかけてあるという。そうすると艦内では、音の伝わり方がまるで変わってしまい、人の話がほとんど聞きとれなくなるなどの間題が出てくる。乗組員同志は話しても結局通じない会話をあきらめて、互いに口もきかないようになるらしい。この話は音の意味とその伝わり方を考えるとき、大いに暗示的だ。つまりある人の発する音が相手に伝わるその伝わり方は、媒質次第だということになる。媒質とは私たちが普通メディアといっているものだから、メディアのありよいかんでコミュニケーシコンの質が変わってくると言いかえてもいい。ところでヒグマ春夫氏のビデオを介在させなから音を発する私が受け手との間に立って考えたのも以上のようなことであった。比喩的にいえば、その場の媒質である室気をビデオは光の放射で錯乱し、そこを伝わる音は様々な屈折を受けて聞き手に届いたことだろう。あるいは届かなかっただろう。その反応を確認しながら、次に送る音の信号にフィドバックさせること、これが私にとっての音のパフォーマンスであった。おそらくその逆の関係が、ビデオの映像を音に浸したかった時間の中で制御していくヒグマ氏の側にもあったにちがいない。寺山修司は、生前、盲学校の生徒との会話に仮託して色と音の連動をすばらしい比喩で語っている。「お月さんはどんな色をしているの」「ドロドロな油の中に石を投げこむ音」といったように。また、金色はナベをたたく音だという。私の音のパフォーマンスは、ヒグマ春夫の視覚世界を音に翻案したものではない。しかし、時々刻にと変化するビデオの光線が、私の出す音を無意識に、あるいは意識のうちで振らせている。その体験は実にスリリングなもので、パフォーマンスとはこの感覚のふるえそのものである。最近、レコードが売れなくなってきたとよく聞かされる。カセット録音が簡単に行なえるようになってすぐ複製がいきわたってしまう絡果だ、ともいうが、それだけではあるまい。反復だけを宿命づけられた肉体をもたないレコードのメディアそのものが、少し飽きられつきたのではないか。その反面、パフォーマンスはいまプームだ。この行きつくはては軽薄な風俗でしかないと思われる部分もあるが、肉体に支えられた行為が表現の主流を歩むようになるのは悪いこどではない。私もそのしり馬に乗ろうという手あいである。(1984年)


1984年11月9日
ゲスト:吉村弘(作曲家)

 
第2部「美術と映像」映像:ヒグマ春夫

1984年12月6日 
美術としてのパフォーマンス
ゲスト:みわはるき(美術家)+赤津侃(美術評論家)


1984年12月7日 

美術のなかの身体
ゲスト:中山正樹(美術家)+高木修(美術家)


1985年1月10日 
光の中の色彩
ゲスト:守屋行淋(美術家)+斎藤義重(美術家)


1985年1月11日 
美術家の仕事
ゲスト:畦地拓治(美術家)+近藤幸夫(東京国立近代美術館研究員)


1985年2月7日 
大地を踏みしめる
ゲスト:翁譲(美術家)


1985年2月8日
ゲスト:難波京子(美術家)張り巡らされた空間
          粉川哲夫(評論家)ビデオ時代のパフォーマンス

 

第3部「身体と映像」映像:ヒグマ春夫

1985年3月7日 
消去とマニピレーション
ゲスト:池田一(パフォーマンス・アーティスト)+鴻英良(評論家)


1985年3月8日 
言葉の<私>/映像の<私>
ゲスト:浜田剛爾(美術家)+鴻英良(評論家)


1985年4月11日 
SELF & REFLECTION
ゲスト:小林進(批評家)


1985年4月12日 
SELF & REFLECTION
ゲスト:小林進(批評家)


1985年5月9日 
身体のアーキテクト
ゲスト:及川広信(ボデーパフォーマー)+湯本香樹実(音楽家)


1985年5月10日 
身体のフュチュアリズム

ゲスト:勅使川原三郎(マイム)+及川広信(解説)+湯本香樹実(音楽家)

 

第4部「写真と映像」映像:ヒグマ春夫

1985年6月6日

ゲスト:大島洋(写真家)


1985年6月7日
ゲスト:中川政昭(写真家)


1985年7月11日
ゲスト:鈴木志郎康(映像・詩人)


1985年7月12日
ゲスト:山崎博(写真家)


1985年8月1日
ゲスト:小川立(映像作家)+森田和夫(映像作家)


1985年8月2日
ゲスト:楠野祐司(写真家)


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ビデオ・フォーラム[パフォーマンス講座

構成:ヒグマ春夫+鴻英良 
会場:サウンド・ファクトリー

 
空問と映像 ビデオパフォーマンスの可能性のために・・・鴻英良(ロシア文学者)
 ビデオ・パフォーマンスという言葉をはじめて聞いたとき、私はこの2つの言葉の結びつきのなかに、香気のようなものを感した。パフォーマンスという表現が、創造の始原の匂いを漂わせていたとすれば、ビデオには、テクノロジイの現代的終着点のようなものが現われている。テクノロジィの終着点が、常にわれわれの手の届かない地点にあるとすればビデオ・パフォーマンスは、われわれにとっての始点と終点にある2つのものを易々と結びつけるのだ。実際、ビデオ・パフォーマンスは、テクノロジイ社会における表現に、多くの示唆を提供してくれる。20世紀が映像の時代だとすれぱ、ビデオ・パフォーマンスは、この映像の時代を新しい空問に向けて解放しはじめたと言えるかもしれない。ビデオ・パフォーマンスの最も大きな特徴は、空問のなかにいくつかのビデオ・モニタ一を配置したことである。これは当り前の事実のようであるが、この事実は映像の歴史にとってきわめて決定的なことである。ビデオ・パフォーマンスに立ち会うものは、そこで、空問的に配置されたいくつかの映像と出会う。このとき映像の周囲の空問、映像を取り巻く環境が同時に目に映る。映像はどんな場合でも、明るいところに置かれさえすれぱ、周囲の空問と同時に見られる可能性を持っている。しかし、映像が実際にそのように見られることは稀である。事実、われわれは茶の問のテレビをそのように見たりしない。テレビの番組を見るとき、原則として、われわれはテレビだけを見るのであり、その画像とその周囲の空問とのあいだにどのような関係が生れるかを見たりしない。こうした、われわれとテレビ画像とのあいだの習慣化された関係が、われわれと映像とのあいだに起りうる関係を貧弱にしている。テレビ画像は、額縁舞台のような覗き穴になっているのである。ビデオ・パフォーマンスはこうした映像を空問のなかに解放する。つまり映像をプロセニアム・アーチから解放するのである。空問がひとつのオブジェだとすれぱ、ビデオ・パフォーマンスにおいて、映像はオブジェと出会うのである。ヒグマ春夫のビデオ・パフォーマンスは、映像とオブジェのこのような出会いを、シンプルだが、実に魅力的に組織している。最近東野画廓でヒグマ春夫が開いた個展「ビデオとマニピュレーション」を見て私はそう思った。白壁の小さな部屋に、ビテオ・モニターが2つ置かれていた。右のモニターは少し高い台の上に、左のモニターは低い台の上に置かれている。右のモニターは左のモニクーをのぞくように、その方向に画面を向け、その画面の下から、白い帯状の紙が、ゆったりと傾斜しながら左のモニターまで、水平に渡されている。低い台の上のモニターは、画廊を訪れる人の方に向けられており、その低い台から、やはり白い帯状の紙が、今度は垂直に、われわれのいる方に伸びていた。白い紙が、白い空問を垂直と水平に切り取っているため、狭い空問は鋭いナィフで鮮がに切り開かれたように見え、空問が不思議な亀裂を巡って静かに増殖していくのである。2つのモニクーは、このような空問に穿たれたもうひとつの窓である。この窓は、壁ではなく、空問のただなかに突如出現し、異空問への通路のようにそこにあるのだ。この窓から映像というコピーが流出してくる。複製され、反復されるイメージ。そのイメージは、見知らぬ映像であるかと恩えぱ、いま、この部屋で起っていることの映像であったりする。外部に向けて開かれたこの曲面空間のなかで再生される外部と内部をみつめながら、オブジェを意調したビデオ的映像が、三次元空問をいかに豊かにできるものかと私は感心していた。仮面に穿たれた目や口の穴が、仮面の表情を垂直に貫ぬく異次元の匂いを漂わせているように、三次元的空問のなかに置かれたビデオ・モニクーの画像ば、その造形空問を、外部の目のなかに、あるいは外部の光へ向けて解放する。そして、あるとき思いもかけないほど身近かなものをそこに映し出してわれわれを驚かすのである。しかし、ビデオ・モニターの映像が複製であることは、こうした映像の驚きを、単なる驚き以上のものにしている。倒えば左のモニターの映像をとらえたカメラの映像が右のモニクーに写しだされたとき、映像の映像は、その色調とフォルムをデフォルメされ、複製の反復を個性的なものにするからである。映像の映像は、それぱかりか、最初の映像の住む環境の匂いを徴妙に伝えている。映像とその映像との差がそれほど強調されていない場合でも、複製の反復は、論理のトートロジイのように、同一者を無限に生みだしていくとは限らないのである。ヒグマ春夫は、複製の反復のさまざまなバリエーションを試みているが、そうしたなかから、複製の反複が一回牲のなかに帰される可能性が示唆されはじめている。そして、その瞬間を生みだしつつあるのが、一回性の神話を失墜させた複製芸衛の極北に出現してきたビデオ・アートであることに、私は表現と歴史のアイロニイを感じている(1985年)

 

パフォーマンス講座-1

1985年11月13日
[映像体験-瞬間と連続]

パフォーマンス:ヒグマ春夫


1985年11月14日
[水の響き]
パフォーマンス:ヒグマ春夫
[タルコフスキーと水のパフォーマンス]
レクチャー:鴻英良(ロシア文学者)


 ・・・鴻英良
水の映像作家タルコフスキーの映像に特権的輝きを与える水。その水の映像のバリエーションは、つねに思寵のようにタルコフスキーの画面に入り込んでくる。その映像のうるおいは、物の世界にアニマをよみがえらせる。このアニマ的映像は、水のパフォーマンスの魅力と無縁ではない。私はタルコフスキーの映像の魅力を水のパフォーマンスとして語りたいと思う。ビデオの映像は、いかにして、タルコフスキーの水のパフォーマンスと出会うのだろうか。
   確かに水は謎めいている。
   私はオブジェとしての水が好きだ
   水は謎めいた物質である
   第一水を構成しているのはたった一つの分子である
   けれども 重要なのは そのことではない
   水がきわめてダイナミックであるということが重要なのだ
   水は 動きを 深さを そして 変化 色彩 反映を伝える
   これは この地上で最も美しい物質なのだ
   水より美しいものは存在しない
   自然現象で 水にその姿を映さなかったものはひとつとしてないのである
                      アンドレ・タルコフスキー(訳:鴻英良)

 

パフォーマンス講座-2

1986年1月28日
[ダブル・ドリーム]
パフォーマンス:ジル・スコット(オーストラリア)
ビデオ・ショーイング
[ストレンジャ・コンパニオン]ジョーン・ブレツシル
[フォー・ガールズ]リンダ・ワラス
[ダブルタイム-ダブルスペース]リンダ・ワラス
シンポジウーム
ジル・スコット(オーストラリア)+鴻英良(ロシア文学者)


1986年1月29日
パフォーマンス
[続・二人の男]
パフォーマンス:ヒグマ春夫(ビデオ作家)+丸山亮(音楽家)
[劇・空間・映像]
レクチャー:鴻英良(ロシア文学者)


・・・鴻英良
 かつて、エイゼンシュテインが夢みた映像のなかに、ジョイス的どでもいうべき映像があった。ジョイス的とは、多義的現実に対する人間の内面の対応の仕方を、そのあり様のままに告げる内的モノローグの映像化である。映像の歴史は、その夢の実現過程てもあった。そして、ビデオ映像が表現媒体として、多くのアーティストによって使用されるようになったいま、多義的、多層的な映像のポエジ一は、現実の空間のなかに、新しい”現実”として出現しようとしている。84年、夏、富山県で開催された「利賞フェスティパル・84-第一回国際芸術祭」において、私は、映像と空間との関係について考えはじめる契機となった衝撃的な舞台に出会った。それは、アメリカのリー・ブルーアーが演出した「メソカ参拝」という作品である。それは、舞台のなかのさまざまな映像が身体の俳優とのかかわりのなかで生みだす世界を表現する実に魅力的なものだった。それ以来、私は、劇こおける映像の問題について考えつづけている。私にとって、きわめて幸運なことに、そうしたなかで、映像と空間とのかかわりに関心を示す多くのパフォーマンス・アーティストと出会うことができた。彼らとの出会いのなかで、現在、私は、舞台の上の映像についてのそしてまた、空間のジョイス的変貌とでもいうぺきものについての省察へとかり立てられている.(1986年)

 

パフォーマンス講座-3

1986年4月2日
パフォーマンス
AN CHI IN(韓国)
LEE GUEN YONG(韓国)
ヒクマ春夫(ビデオ作家)


1986年4月3日
ビデオパフォーマンス
ヒグマ春夫(ビデオ作家)+根津のりゆき(音楽家)
[ニューヨーク3月31日深夜発信アーツの現在]
レクチャー:鴻英良(評論家)

 
パフォーマンス講座-4
1986年7月24日
「インターコラボレーションの240分」
ヒクマ春夫(ビデオ作家)+竹田賢一(音楽家)+永山聡子(日本画家)
レクチャー:鴻英良(評論家)

 
パフォーマンス講座-5
1986年11月27日
1部:パフォーマンス
[ゆらぎ伝説こまごめ]
ヒクマ春夫(映像)+永山聡子(身体)+千野秀一(音楽)

2部:シンポジウム
[ゆらぎと映像]
鴻英良(評論家)+粉川哲夫(評論家)+佐々木幹郎(詩人)


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福島県桧技岐村で、パフォーマンス・フェスティバル86が行われた。そのとき「ゆらぎ伝説ひのえまた」と題したパフォーマンスを展開した。「ゆらぎ伝説ひのえまた」は、桧枝岐に存在する、自然現象をVideo TOTEMと共に組織し、そこで発生する「時・空間」それ事態をパフォーマンスとする試みであった。桧技岐では、水・石・川・草・木・山・家・空・星などと映像が出会う。ビデオ・カメラはそれらの自然物を魅力的に捉えVideo TOTEMに映しだす。映しだされた自然物の映像と自然物、それ事態が奇妙な相互関係をつくりだす。この奇妙な関係の中に「ゆらぎ」の始原性が潜んでいる。そう思わずにはいられなかった。そして、それは映像の発祥地でもあった。しかし、「ゆらぎ」は映像の中にだけあるものではない。人の身体運動の中にも「ゆらぎ」はある。映像と身体と音の「ゆらぎ」が融合する「時・空間」を三人のアーティストが、駒込の場で試行する。 1987年

 
ゆらぎ
会場:サウンド・ファクトリー
出演:ヒグマ春夫(映像)+永山聡子(身体)+竹田賢一(音)

 
 1987年のパフォーマンス「ゆらぎ」で、駒込のサウンド・ファクトリーでの企画は全て終了した。
 一連の駒込サウンド・ファクトリーでの企画が終わったころ、カナダでのパフォーマンスの話が持ち上がってきた。1989年に準備の為バンクーバーに行き、ウェスタン・フロントのハンクに会った。ハンクはカナダの文化省のサポートで、1990年にカナダを横断するパフォーマンスを企画した。その企画に、わたしとイトウ・ターリが参加した。ビクトリア、バンクーバ、ウニぺック、モントリオール、オタワ、トロント、ハリファックス、モンクトン、ケベックシティーの9都市で、2ヶ月間に渡る公演だった。この企画の後、わたしはニューヨークに1年間滞在することになる。