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[コラボレーションの経験 1994→]・・・ヒグマ春夫
 時・空間を共生・共有・共創する美術

 1991年の12月に帰国したわたしは、何もできないぼーっとした日々が続いていた。ある日、スタジオ錦糸町にパフォーマンスを観に行き、担当者を紹介されたのがきっかけとなって、何か企画してみようと思いたった。そして1993年からスタジオ錦糸町で、パフォーマンス・シリーズ[映像・音楽・身体]がはじまる。

 
パフォーマンス・シリーズ[映像・音楽・身体]
コラボレイティブ・パフォーマンス
1993年6月-1994年6月 
企画:CT-Project/ヒグマ春夫 
会場:スタジオ錦糸町

 
 水とか土とかの元素はとても大切なものだけれど、あまりにも身近にありすぎて、その大切さをついつい忘れがちである。今回は、そういったエレメントを素材というか発想の原点に置き、様々なジャンルのアーテイストと共に、共同で作品をつくるという方法を用いた。
 地・水・火・風・空の五つのエレメントは、当然ながら生物や動物(人間)にとってなくてはならない元素である。そういったエレメントと自然環境との関係や人間との関係を明確にする。今、私たちが住んでいる地球には、多種多様な文化が共存している。そこには様々な言葉の違いがあり、コミュニケーションも多種多様である。コミュニケーションにとって最も大切な事は、個々が互いに相手を理解していこうとする気持ちと、個々がアイデンティティを持って自己を主張していくことである。そして、お互いが抱えている文化や歴史を検証し、真実の歴史を理解していこうとする姿勢が必要である。コラボレーションという複数の人がテーマにそって共同作業をしていくこの方法は、とても大切な事だと考えている。歴史的な流れの中で共同作業について考えてみると、私たちの先祖は、あらゆる生活の場で共同作業をしていた。そして、その様な生活の場には必ずと言っていいくらい自然のエレメントが儀式の中心になっている。この様に自然を中心とした社会をとりあえず、アナログ的な社会として考えると、当然デジタル的な社会がその対局にはある。現代はあまりにもハイ・テクノロジーが主流の社会になってきていて、コミュニケーションの方法も、人と人との直接的なコミュニケーションより、テクノロジーを介した電話やパソコン通信の様な、間接的なコミュニケーションの方が多くなりつつある。この様に現代社会がテクノロジーを中心としたデジタル型の社会に、益々なって行くであろうと言う事は理解しつつも、自然のエレメントを崇拝するアナログ型の社会も無視することはできないのである。ここでは欲張りではあるがデジタル的とアナログ的という二つの捉え方を、それぞれ別々の視点で捉えるのではなく、二つを互いに融合させながら創造するという観点で捉え、新たな方向性を模索したいと思う。
 展開方法:コラボレィテイブ・パフォーマンスという方法で行う。さらにそこから発生して生まれた意味や内容を、メディアと身体を使ってコミュニケーションの在り方を考える。構成としては、映像、身体、音楽、美術、言語等のジャンルになる。ポイントとして美術的なインスタレーションの要素を強く出す。パフォーマンスは、各ジャンルから一人ずつの作家が参加する。それぞれの専門家がテーマに基づいて、コラボレーションをすることによって、今までになかった新たな発見をする事ができる。パフォーマンスの展開は、限られた時間の中で即興を重視する。例えば、前もってスコアーを作っておくのではなく、共有できる時間をお互いが、時間を読み取りながら行為を続けて行くという方法である。シンポジウムのテーマは、五つのパートに分ける。 
  1:水の響き 
  2:火のゆらぎ 
  3:風の囁き
  4:地の鼓動 
  5:空の音色 
である。そしてトークでは、それぞれのパートで専門分野の学者が討議をする。
 パフォーマンスは、一つの芸術のジャンルである。そこで繰り広げられる行為は、パフォーマンスを行うアーティストの数だけ存在する。今回は、初めに個々のアーティストが自己のパフォーマンスの展開プランについて、どの様な考えを持っているか等の意見をだしてもらう。そして、個々が持っている考えの違いを互いに確認する。次に個々でパフォーマンスのプランを考える。何故このような方法をとるかというと、何故ならばパフォーマンスには、パフォーマンスを行ったアーテイストの数だけの意味が存在するからである。そして、それらの意味は、現代に於いてはまだまだ概念化の難解な作業である。しかし、パフォーマンスが個人的創造の産物であり、また芸術行為がこれに尽きる以上、そのことをベースにした展開の上でコラボレーション的な表現方法を考えざるを得ないのである。
 水を意識的に持ち出してきたのは、初めは個人的な趣味の領域からであった。水にはとても奥の深い意味が秘められている。当然ながら水を必要としいのるのは、人間だけではない。地球に住む全ての生物が水を必要とし、なんらかの形で関係を持ちながら生存している。今日のように環境問題がクローズアップしてくると、水そのものがもつ背景がとかく問題視される。エネルギー確保のためにダムを建設することや洪水を防ぐために堤防を作ることや都市開発のために川に蓋をしてしまうといった事は、人間を中心とした水に対する社会的な働き掛けである。芸術的にも水を対象として作品化したり言語化したり映像化したり身体化している作家も沢山いる。

 
制作現場その-1
 新宿から首都高速に乗った。速いはずの高速道路はとても混んでいる。あっ!また失敗したと自答する。こののろのろ運転は何とかならないものなのか?。と、何時も乗ってから後悔する。というのは乗るまでは、今日はすむずに走るのではないかという期待感を持っているからだ。しかし、いつも裏切られぱなしである。そういえば首都高速が完成したのは東京オリンピックの年であった。あれから30年の歳月が流れ社会の環境は大きく変化してきている。なのにその当時のままと言うのも疑問である。それに車を運転している時は、あまり気に留めない事だが、街を歩いて見ると都市の景観をことごとく壊しているのも高速道路である。高速道路という構造物をただ車を走らせる為の機能体としてではなく、その構造物を都市の景観といった観点で、都市環境の視点から美術的に衣替しても良さそうな時代にきている様な気がする。
 カナダの音楽家からもらったカセットテープをカーステレオにセットした。その曲はゆったりとした旋律であった。のろのろ運転で聞くこのリズムは、退屈であり重たい空気を車内に漂わせるものである。しかし、湾岸道路に入り車がスピードを増すにつれて快適さに変わってきた。音によって風景が風景によって音が絶えず新鮮さを露にしてくれる。こういった現象は電車に乗った時も感じることができる。そういえば私が展開しているパフォーマンスもこういった差異による出会いの場という事なのだろうか?。
 車は、海の見える海岸に着いた。しばらく車の中から海を見ていた。シーズンオフのせいか人はまばらである。車のドアを開けると潮風が顔に優しい。車から降りコンクリートの上に腰をかけ波の動きを見詰める。海岸に押し寄せる波は、同じ様なうねりをしながら繰り返されている。しかし一つとして同じうねりはないという意識がなぜかしら働く。川の流れを見ていてもそうだ、『この水の流れは何時も一定に同じ様に見えるけれど、いま流れている水はもう二度とここにはない。』そういって悟りの境地を語ったのは、確かシッタルタであった。
 「水の響き」を考えるきっかけになったのは、水と言う物質がとても身近な存在であり、私たち人間にとってはなくてはならない物質であり、普段はほとんど意識しない存在物だと言う事である。そう言った水を改めて意識すると、身体の70%が水分で構成されいたり、生き物すべてが水と関わりをもって生存していたりしている事を知る。そして、その水の動きは、時にはゆったりと、時には荒々しく、時には静止しているかの如く、環境と一体になって存在しているのである。
 ここは九十九里浜海岸である。そして私の横には、1ケ月前にインドに撮影に行っていた女性が座っている。私は、彼女からインドでの出会いを聞いた。「インドを旅していて思うことは、何か哀愁を感じることである」という。こういった感情に出会うことは、取り立ててインドに限ったことではなく日本の中でも、ものすごい田舎などに行った時に思い巡らす。ただ問題なのは、そういった場が少なくなつたことである。確かに50年代や60年代には日本の至る所にそういった事を体験することができた。しかしそれ以後の日本ではそういった風景との出会いを実際に経験するには難しい。インドを撮影したのは、まぎれもなく彼女である。わたしが彼女とコラボレーションをしていくためには、彼女の写真の説明や彼女の身体が記憶しているインドについての情報をわたしなりに紐解いていくしかないだろう。それにしても、「インドは、命のあり場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性をもって自己を主張している」という藤原新也氏の「インド放浪記」の言葉は魅力的である。
 しばらく波のうねりを見ていたわたしは、波際まで歩いていった。砂浜を歩く足しの重みで水分が押し出され、白い泡が足の形に沿って吹き出されてくる。しかしすぐに元の状態に戻る。この光景はとても新鮮である。そのせいか何度も何度も同じ事を繰り返してみた。それから波のうねりの高さと同じ高さの体制で波の動きを見た。波が夢中でわたしの方に走って来る様に感じたり、わたしから去って行くように感じたりする。じっと見入っていても飽きることがない。波の動きが飽きさせないのは同じ動きをしているようでいて、一つとして同じ動きがないということだろうか。それとも波のリズムが私たちの身体リズムとリンクしている何かがあるというのだろうか。ある神知学者は波は女性であるという。それにしても波の動きは魅力的である。
 インドを旅した姿で、水際を歩いたり、走ったり、海の中に入ったりしているところを映像に撮りたいと彼女はいう。
 九十九里浜は、千葉県の外房でとても長い海岸である。私たちは、できるだけ波の綺麗なうねりと、それでいてダイナミックな動きをする場を探し求めた。丁度出くわした浜辺は、以前わたしが何度か訪れたことのある場所だった。
 ここは比較的広い砂浜があり、波のうねりも申し分なく美しい。最初波の動きに焦点を当てカメラを設置した。それもできるだけ力強さを出したくアップで捉えた。しばらく波だけを撮影していた。いきなり海の中に走り込んでいく彼女には驚いた。が、とても自然な感じがした。走ったりしゃがみこんだり砂に何か絵らしいものを描いたりといった行為を撮り続けた。撮っている自分に気が付いたのだけれど、初めに予定していたある種のスコア的な、自分なりの台本はとっくにどこか頭の隅に追いやられていた。こういった状態はパフォーマンスをしているときに出くわす状況ととても良く似ている。確かにパフォーマンスには、自己を忘れてその場を共有しようという働きがある。こういった夢中な時間は、パフォーマーにとってはとても心地好い時間である。だが観客はとても退屈な時なのかもしれない。しかしここで行われた事はパフォーマンスではない。だが確かに二人は互いに無意識の時間をそれぞれに共有する事ができており、そういった行為がビデオに撮られその映像が次の表現の素材となる可能性もある。ここでのパフォーマンスという一つの定義は、追跡という可能性を秘めているということになる。追跡とは表現者が持っている展開の一つの力であり持続力である。
 ともかく撮影は終わった。終わった後ぬれた衣を身にまとい彼女は寒さに震えていた。わたしは、砂浜に転がっている流木を拾い集め焚き火を始めた。こういった様子を釣人が横目で見ながら何人もとうり過ぎていった。時間は午後の2時頃であった。
 海岸は都市の風景とは違う、その違いは建物が密集していないという事もある。或いは、陸の反対側が絶えず海ということもある。そういった視覚に写る風景の違いよりも、空気が肌に触る感触が違う。臭いが違う。どことなく甘ったるく解放感を感じさせてくれる。この解放感は、きっとあの波のうねりのずっと先には何か未知の世界があるという希望に満ちている。しかし実際にはあの水平線の向こうは、絶えず水平線でありどこまで言行っても水平線が続いている。そしてその水平線を追っていった先がアメリカ大陸であるという事の予想は着く。そういえば2年前、バンクーバーに滞在していたとき同じ様な事を考えていた。そしてそこには文化の違いという未知の世界があった。たぶん彼女もインドという国を射程に置きながら、そんな思いで海を見ていたのではなかろうか。
 車は九十九里浜海岸を後に、東京へ向かっていた。段々東京に向かうにしたがって風景が一変していく。建物が多くなる。車が多くなる。確かに人口物の構造体の中に段々と吸い寄せられていく感じである。

 
 今度のパフォーマンスには、カナダから二人の音楽家が参加する予定だった。サラ・ピーブルスとキーク・ティーナーである。しかしキーク・ティーナーは来日できなかった。理由としてカナダの国際交流基金からの助成が得られなかったためである。こういったことはあまり珍しいことではない。以前、わたしもこれと同じ様なことを経験したことがあった。もう何年か前の話しになるが、トロントでビデオ・フェスティバルが催されることになり、そのフェスティバルから招待を受けた。わたしは急いで国際交流基金にその招聘状を持っていき援助をお願いした。しかしその年の分はとっくに締め切られた後であった。こういった経験でいつも思うことは、もっと幅のあるシステムが必要ではないのかということである。というのは、大きなフェスティバルはともかくとして、小さなフェスティバルは以外と急に事が運ぶ場合が多い。その急さに対応するシステムが今は無い。そしてもっと付け加えていうなればこういった小さなフェスティバルは、以外とその国の人達とのコミニュケーションが図れるのである。サラ・ピーブルスは幸運にも国際交流基金内田奨学金がおり参加できた。
 キーク・ティーナーの空きを何とかすべく動き回った。そしてオンド・マルトノ奏者の原田節氏とサウンド・パフォーマーの水嶋一枝氏が参加することになった。今度のイベントは「水の響き」として、水をモチーフにして制作した映像がそれぞれのパートでプロジェクションされる。

 
 6月11日は、その映像にサラ・ピーブルス、水嶋一枝、原田節の3名の音楽家が共奏した。水嶋一枝は、糸電話というシステムでインスタレーションした。糸電話とは、読んで字の如く私たちが小さい頃、少なからず経験したことのある遊びである。そういった遊びも糸電話の数が多くなり、使う人が音楽に通じている彼女だと、遊びをとうり越して音そのものを鑑賞することが出来る。
 6月12日は、「水の響き」として制作した映像に、手塚智子氏のスライドが加わり、千野秀一の電子音楽がリードしていた。
 6月13日は、4台のモニターと1台のプロジェクターに写る水の映像のインスタレーションで蒿康子氏が踊った。

 
<映像・音楽・身体>Vol.1
「水の響き」企画:ヒグマ春夫
1993年6月11/12/13日
公演:スタジオ錦糸町
出演:サラ・ピーブルス(作曲家-カナダ)、原田節(オンド・マルトノ奏者)
水嶋一江(サウンド・パフォーマー)、千野秀一(音楽家)、正岡泰千代(作曲家)
蒿康子(ダンサー)、手塚智子(写真家)、ヒグマ春夫(映像美術家)

 
<映像・音楽・身体>Vol.2
「地の鼓動」企画:ヒグマ春夫
1993年10月15日
公演:スタジオ錦糸町
出演:森下泰輔(ビデオ・アーティスト)、岩名雅記(舞踏家)
服部達朗(エレクトロニック・ヴァイオリン奏者)、鴻英良(演劇評論家・大学講師)
手塚智子(写真家)、ヒグマ春夫(映像美術家)

 
<映像・音楽・身体>Vol.3
「火のゆらぎ」企画:ヒグマ春夫
1993年12月8/9日
公演:スタジオ錦糸町
出演:風巻隆(ドラム・パーカッション奏者)、秀島実(舞踏家)
森下泰輔(ビデオ・アーティスト)、竹田賢一(大正琴奏者)
星野共(舞踏評論家・大学教授)、秋山邦晴(評論家・大学教授)
手塚智子(写真家)、ヒグマ春夫(映像美術家)

 
<映像・音楽・身体>Vol.4
「風の囁き」企画:ヒグマ春夫
1994年3月18/19日
公演:スタジオ錦糸町
出演:大倉正之助(大鼓奏者)、水野俊介(作・編曲、5ストリンクス・バス奏者)
粉川哲夫(哲学者・大学教授)、ヒグマ春夫(映像美術家)

 
<映像・音楽・身体>Vol.5
「空の音色」企画:ヒグマ春夫
1994年6月17/18/19日
公演:スタジオ錦糸町
出演:佐土原台介(朗唱・詩人)、伊賀崎陽子(朗読・詩人)、関口裕昭(詩人)、有吉哲郎(音楽家)、西村卓也(Bass・音楽家)、リサ・デール・ミラー(パフォーマー-アメリカ)、嶋田美子(美術家)
小林テレサ(美術家-アメリカ)、森下泰輔(ビデオ・アーティスト)、宇自可令(ビデオ・アーティスト)、管間圭子(音楽・美術家)、有科珠々(舞踏家)、とうじ魔とうじ(特殊音楽家)
日向あき子(美術評論家)、ヒグマ春夫(映像美術家)


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パフォーマンス・シリーズ[映像・音楽・身体]の次に企画したのが、シリーズ[映像による身体性の追求]である。

 
シリーズ[映像による身体性の追求]
コラボレイティブ・パフォーマンス
1996年.4月-1997年-1月 
企画:CT-Project/ヒグマ春夫 
会場:スタジオ錦糸町

 
 このシリーズの特長は、「自己」と「他者」について、映像と身体を通して考察していくところにある。その方法論はとても多義に渡っている。例えば、一人のダンサーの中で「自己」と「他者」が共存し、絡みあい入れ替わっていく身体を映像でくまなく捉える。その映像は、デジタル化され再びダンサーに投げ返される。ダンサーは、デジタル化された映像と、たえず交差し入れ替わり紡ぎあうことによってまた新たな動きを創造する。また、映像による新たな身体の動きの発見も模索している。例えば、砂浜や野原でダンサーに自由な動きをしてもらう。そういった動きを映像で捉える。そして、その映像をダンサーにフィードバックする。このことでダンサーは最低二つの新たな世界と出会うことになる。一つは、映像による自身の身体の動きを客観的に観察するということ、もう一つは、砂や草といった物質との直接的な感触と様々な音との出会いである。ことによつては、未知の世界を創造していくきっかけにもなる。
 またコミュニケーションの問題もとても深く考えている。一人称から二人称への関係は、「自己」を知り「他者」を知るコミュニケーションの始まりであった。しかし、現実には、ディスコミュニケーションの問題まで浮上している。本当の意味でのコミュニケーションを成立させるためには、私たちの周りで生殖している生きもののことをもっと深く知る必要を感じている。そのため今回は、幾つかの昆虫を具体的に取り上げ、昆虫の生態を考えながら創造のきっかけにしている。「人間」と「自然」との本当の意味でのコミュニケーションを考えることが、グローバルな意味でエコロジカルな社会につながる以上、こういったことの実験は欠かせないのである。映像と身体による「自己」と「他者」の考察は、電子メデイアによるコミュニケーシヨンの問題から「人間」と「自然」とのコミュニケーションにまで拡がっている。

 
Vol.1「自己と他者-HONEYBEE」
作・構成・映像:ヒグマ春夫
出演:阿部慶子(ダンス)、臼井百合子(ダンス)、金井久美(ダンス)
曽我傑(音楽)、難波京子(美術)、ソライロヤ(照明)、徳田ガン(舞台監督)
栗栖峰夫(記録)

 
制作現場ノートその-1
(1)コミュニケーション
 ひとりのダンサーが野外でダンスをする。その空間は、花や石や木や草や水や土などの自然環境がまだ存在している場である。ダンサーは、花や木や草などと戯れるような、或いは、遊んでいるように舞う。ここでは、花や木や草も人間と等価値の存在として捉える。自然物を人間と同じ価値で捉えるという事は、花や木や草を今まで以上に観察し、花や木や草のうごきや、仕草を見つめることである。自己にとって花や木や草は、他者であることを認識したところから人間と自然との対話が始まる。そういった環境でのダンスである。そして映像は、そういった関係を描写する。
(2)テクノロジー
 回転する石。静止している石。静止している石が、回転したりスイングしたりする時、そこにはなんらかの力がはたらく。そのはたらく力との関係をここでは、テクノロジーとする。また、自転車の輪が回転する時も同様である。自転車のシステムの場合は、そこからもうひとつのオブジェをうごかすという関連をつくりだす。ダンサーは、舞いという動作によって、石や自転車に力を与える。また、石や自転車のうごきが新たな舞をダンサーに甦らせる。ダンサーにとって石や自転車は他者であり、またここでは、映像というもうひとつの他者も現われる。
(3)演じる精神
 (1)で体験したダンサーの身体は、その身体記憶を引きずりながらが自己のうごきをつくりだし、新たなうごきへと精神性を高めていく。
 この構想で問題にしているのは、エコロジーである。それも環境破壊を生み出す大規模な生態形としてのシステムではなく、自己から出発し、自己の周りや昆虫の世界で起こっているささいな出来事に目配りをするする様な、ささやかな関連に意味を求めるエコロジーである。この公演は、それぞれの人がそれぞれの立場で関連をもつことからはじまる。そして、それぞれが自己と他者の関係を紡ぎだし、自己の動きを創造していく。映像はそういった関連を紡ぎだすソースや潤滑油の役割であったり、映像から身体へのアプローチをする役割もになっている。この作品で求めているものは、自然の花や草木などと、人とその周りにある全てのものが、等価値の存在としてあり、そういった細やかなものの存在を認め会うことの必要性が観客に伝わればという試みである。

 
制作現場ノートその-2
 人という文字は、二つの棒が支えあっているような形に見える。人間は、互いに支え会いながら生きて行かなくてはならない。ずっと前にこの様な事を耳にした様な気がする。しかし、見方を変えれば人という文字は、支え会っているようでもあり、ぶつかり会っているようでもある。人と人とが何かをするとき、いつも助け会い、支え会っているとは限らない。最近の世の中の動きを見ていると、ぶつかり会っていることのほうが多いような気がする。人は、一人称から二人称の関係になるとき、様々なコミュニケーションの方法をとる。コミュニケーションは、互いに理解し会うということもあるが、自己の存在を確認するということもある。いってみれば自己のアリバイ証明の様なものである。人という文字を二つの棒が支え会っている。という捉え方ではなく、二つの棒が天空に向かって真直ぐにそびえ立っている。という捉え方をする時、コミニケーションの新たな形が見えてくる。
 渋谷駅の交番の前で7時に待ち合わせをした。時間よりもちょっと早くついた。髪を揺らす風が少し冷たい。ポケットに手をつきこみ辺りをうろついた。今の今まで気にもしなかった人の群れ、人が多すぎて、どんな人々なのかファッションやルッくス等を観察する気さえ起きない。何となく思わず視線を上に向けてしまう。7時の渋谷は、ネオンや街灯のあかりで少し薄暗くもやがかった光景に見える。ビルに視線を移すとビルの壁面には大きな映像のスクリーンがあっちこっちに幾つもみえる。当然そのスクリーンに流れている映像は、大半がコマーシャルである。映像は道行く人の視線をひこうと、秒単位の感覚で編集され、まるで映像のストロボを浴びせる。しかし、不思議とこの映像が目障りではなく、街のノイズと溶け込み心地よささえ感じている。雑踏の中の映像や雑踏の中の環境音や雑踏の中のファッションは、その環境が混沌としているがゆえに気にもせずに見過ごし聞き流すことが出来る。といってすべてが脳を通過点として通り過ぎる情報とは限らない。一部は確かに空気感として身体にインプットされている。そういったインプットされた身体記憶を紐解き、新たな空間で再び創造行為をする。或いは思い巡らす。といった事は日常誰もが無意識のうちに繰り返している事である。今回は、あえてその無意識に行っている事を意識的に、新たな空間で創造する試みである。
 真直ぐに天空に向かってそびえ立つ身体は、頭は天空に向かって、足は地上にしっかりと踏ん張っている。天空の光りが、頭を突き抜け身体の内部を通過し、混沌とした地界へと拡がっていく。天空には、抽象的幻想の様なまだ見ぬ光が拡がっている。その光が真直ぐに天空に向かってそびえ立つ身体にのみふりかかる。天空と頭との中間には、いくぶんぼんやりとした具象的な光が拡がっている。その光は、天空の光を受けてゆっくりと動き、時には激しく動く身体の様に見える。大地では、自己と他者が一つの身体の中で共存し、入れ替わり、絡みあって、忙しく動きまわっている。一人のダンサーは、ビデオ・カメラを手にし、自分の姿を写し出している。しかし、ダンサーの視線には、動くビデオの映像は見えない。静止した映像のみ見ることが出来る。ビデオ・プリンターで出力された静止画像で自己を確認する。そして、地界の内部に拡がった光は、網の目のように交差し、地球の隅々までいき渡っている。
 映像-1は、昆虫の視点で捉えたアップの木や花や石等に、ゆったり動く水面が重なる。バックのスクリーンの映像ともう一台のプロジェクションの映像が重なる。その映像をダンサーは座って見ている。ダンサーの後ろには白いオブジェが置かれている。
 映像-2は、ダンサーの身体が素材になっている(10分)。その映像にときたまプロジェクションの映像が重なる。プロジェクションの映像は、身体の部分、例えば、目、鼻、口、指など。その映像が流れている10分間、その映像と対話するようにダンスをする。ここでの動きは、自然の情報をインプットした身体が記憶をひもとく様な、例えば花びらが静かに開くような、そんなイメージの動きである。
そんな動きの最中、ダンサーBはライトを手に、ダンサーCは鏡を持って現われ、ダンサーBはライトをダンサーCの鏡に向かって投射する。その反射を受けてダンサーCはダンサーAの動きを照らす。
そして、ダンサーBとダンサーCは、自分の前にあるビデオ(映像-3、映像-4)に向かって進み、映像と実像との確認作業をする。映像-3と映像-4は、スタジオと街の中で撮影したもの。
ダンサーAは、10分のダンスが終わった後、天空の光が身体に宿りついているという想定の身体になる。そして、ビデオ・カメラを手にし自分自身を映し出す(映像-5)。その映像はプロジェクションされているが、ダンサーAには、動く映像は視覚できないという条件がある。しかし、静止している写真は視覚できる。ダンサーAはビデオ・カメラを手にして、動きながら周りを撮る。この時のイメージは都市の混沌とした環境の中で自分を探し求めているといった様子を現わす。ダンサーBは、ダンサーAの捉えた映像をビデオ・プリンターでプリント・アウトし、その映像をダンサーAに見せようとしたり、紐に写真をつるしたりする。ダンサーAはそこにつるされた写真をみて始めて自分自身が撮った映像であることを確認する。ダンサーAは静止した映像しか理解することができない。ダンサーBとダンサーCは、モニターの周りにインスタレーションされているカード(写真)を手にし、白い糸につり下げる。カードの置いてある場所から糸の所に行く間、二人は様々な動きを試みる。カードが段々とつり下げられていくにしたがつて、ダンサーA、ダンサーB、ダンサーCの三人は、紡ぎあいながら、都市の雑踏の混沌とした動きをする。そして、暗転になり映像が投影される。
ここには、もう一つのイメージがある。それは、カードが増えていくにしたがって、美しい花園が拡がっていくということである。美しい花園と混沌とした都市。こういった矛盾を現わしている。三人は、映像を受けながら楽屋へと去っていく。そして、映像と音楽のコラボレーションが始まる。

 
批評・・・船木日夫
 「自己と他者」といった、普遍的な存在論の命題を言語的にあるいはテキスト風に表現しようとすると、どうしても観念の範囲に閉じられるのはやむをえないことで、その難しさはハイデッカーなどがいう、自己こそ他者であるといった存在論のややこしさにあると思います。つまりそこは、ベジャールだつたら挫折する愛とか、死とか、孤独とかというコンセプトに移行させ、皮膚感覚の背反と融合、静と動とかのすり合せという分りやすくアンビバレンツな形象を表現し、他者をあくまで異質なものとして現わそうとするでしょう。しかしダンスは身体の美的特権によって、観念以上にめくるめくものですから、彼女のような素晴しい資質をもった踊り手の動きには、つい快よく魅かれてしまいます。ヒグマさんの映像は、いつもジヤンク(がらくた)の中に感情の通路を開いていくような、ひたすら明るいスギゾ性を感じます。しかしそうであればあるほど、映像とかイメージとかという記号に帰納されがちなものが、無機的に軽くこわされていくという快感があります。この作品でも、群衆の雑踏のなかで彼女の身体が見失われたり、無機的に映像の客体に重なるところは、すごく現代の実感がありました。また、彼女の肉体のディテールがアップで重なるところも、他者的自己の表現として鋭いパフォーマンス性を感じました。しかしやはりコンセプトがしっかり表現されないともの足りない。見るものにしっかり見せるというより、平板に飛ばしすぎているという感じ。これは若いからでしょうか。身体の特権はむしろさまざまな条件、環境、異質なリズム、表現できないような内部によって、かえつて明確に表現されるのではないかと思います。(1996年)

 
Vol.2 ANT「球体のまんだらとアリのミメーシス」
作・構成・映像:ヒグマ春夫
出演:徳田ガン(舞踏)、平石博一(音楽)、難波京子(美術)
ソライロヤ(照明)、大野泰代(衣装)、栗栖峰夫(記録)
1996年6月公演(イタリア-アルゼリア)
1996年7月20日公演(スタジオ錦糸町)
1996年9月6日公演(METホール-池袋)
器材と材料:ビデオ・プロジェクター2台、白い布、白い風船1コ、
美術の材料:真鍮管、糸、

 
Vol.3「てんとう虫のミメーシス」
作・構成・映像:ヒグマ春夫
出演:ミゲル・アンヘル・ガニコ(舞踏ダンス)、尾山修一(ss.ts.bs)
ケミー西丘(piano)
1996年10月6日公演(スタジオ錦糸町)
器材と材料:ビデオ・プロジェクター2台、鉄板

 
制作現場ノートその-1
1)都市の雑踏の中から一人の男が自然の恵を求めてやってくる。
2)水の映像が写しだされると、男は、てんとう虫に変身し、てんとう虫の動きをする。
3)都市の映像と共に男は、てんとう虫から人間の世界に戻り、荒々しく混沌とした世界を紡ぎだす。
4)最後に渓流の小さな小川の流れが写しだされる
てんとう虫が模倣を繰り返しながら様々なものに姿を変え地球環境をさまよい歩く、そういったイメージをビデオで捉える。その映像は時間軸で現わされる。会場構成は舞台に映像が投影されるシーンから始まる。舞台ではダンサーや音楽家や美術家が様々な行為をしており、時折スクリーンの中と舞台上を往来する。

 
Vol.4「くものミメーシス」(約60分
作・構成・映像:ヒグマ春夫Haruo Higuma
出演:室野井洋子(舞踏)Youko Muronoi
臼井弘行 (ディジェリドゥ)Hiroyuki Usui
大島愛美(美術)Aimi Oshima、ソライロヤ(照明)、栗栖峰夫(記録)

 
 インターネツト上に浮遊するはかり知れない数のバーチャルな情報・・・。情報という目に見えないシステムが、今とても大きな存在として、私たちの周りを取り巻きつつある。それに比べて身体が模倣しようとする情報は、とても小さな存在なのかもしれない。水の流れや海の働き・風にゆらぐ梢のしぐさ・都市環境・暗闇の中に光り輝く惑星・・・。そして、昆虫の生態系をも模倣の対象としてミメーシスすることによって、何かしら強い力で内に向かって突き進んで行く「モノ」を感じる。

 
制作現場ノートその-1
 このドラマの始まりは・・・、太陽が東の空からのぼり西の空にしずんで行くというごくあたりまえな自然の時の流れを現わそうとしている。朝日を受け光り輝く球体(水滴)。その水滴は、時と共に消えていく。水滴を支えている無数の細い白い糸が浮かび上がる。その細い白い糸は、規則正しく幾何学的にあたかも科学が造り出す公式のように張り巡らされている。もしかすると科学以上の巧妙さで紡ぎあっている様である。実は、この網こそが蜘蛛にとってはたった一つの自己表現の場なのである。蜘蛛は、この網を紡ぎだした後じっくりと獲物を待つ。獲物は、蝶や蜂やトンボ等々の様々な昆虫たちである。時には、木の葉が舞い散り巣にかかることもある。巣に獲物がかかると、蜘蛛はどこからともなく走りよってくる。そして、白い糸で獲物を巻付ける。あっという間に獲物は、白い繭のように巻付けられてしまう。夕日が西の空に沈むころ巣に点在する昆虫のシルエットは、碁盤の様である。
一日という時の経過を24時間という時計に刻みこまれた時間軸ではなく、太陽を中心とした自然な時間軸で捉えようとしている。水滴は360°世界をまるごと写し込む万華鏡としてのイメージがある。網は現在から未来へのネットワークへとつながる。都市・情報・交通・通信等のシステムが接点にインプットされている。碁盤は嵐の後の静けさをイメージしている。

 
 ディジェリドゥ(Didjeridu)と云う楽器は、オーストラリアの管楽器で、ノーザンテリトリー北部からウエスタンオーストラリア州北部に分布する。ユーカリの木の髄をシロアリが食べ、筒状になったものを吹く。音程を変えるための指穴は無く、口の形を変え、あるいは舌を動かすなどで音を変化させる。この楽器は鼻で空気を吸いながら、音を切らないように吹き続ける”循環呼吸”と云われる奏法で演奏する。(アボリジニーによる名称はYIDAKI)