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[コラボレーションの経験 1997→]・・・ヒグマ春夫
 時・空間を共生・共有・共創する美術

シリーズ[映像による身体性の追求]の次の企画として[シリーズミメーシスする身体]を企画する。

 
シリーズミメーシスする身体-Vol.1
1997年6月18日/19日(アルゼンチン公演) 7月5日/6日(東京公演)
コラボレイティブ・パフォーマンス
「水鏡」
作・構成・映像:ヒグマ春夫
出演:ミゲル・アンヘル・ガニコ(舞踏)フリオ・ゴヤ(美術)平石博一(音楽)ヒグマ春夫(映像)
照明:ソライロヤ 
音響:三枝由起夫 
衣装:時広真吾
記録:栗栖峰夫 
通訳:佐藤美香 
アシスト:猶原三和
会場:リカルド・ロハス文化センター(アルゼンチン)
:スタジオ錦糸町(東京)
助成:芸術文化振興基金助成事業(東京公演)
  :国際交流基金
  :東京都歴史文化財団
協力:スタジオ錦糸町

 
シリーズミメーシスする身体-Vol.2
1997年11月28日/29日(会場:スタジオ錦糸町)
コラボレイティブ・パフォーマンス
「ミズの記憶とテマトロジー」 
作・構成・映像:ヒグマ春夫
出演:平石博一(音楽)坂本弘道(チェロ)ヒグマ春夫(映像)
照明:ソライロヤ 記録:栗栖峰夫 
助成:芸術文化振興基金助成事業
協力:スタジオ錦糸町

 
 ライブハウス、劇場等で勢力的にコンサート活動を続けているチェリストの坂本弘道とコンサート会場を飛び出して、美術館やギャラリー等でも先駆的な作品を発表している現代音楽家の平石博一。この二人の音楽家とビジュアルアーティストのヒグマ春夫がコラボレーションをする。ヒグマ春夫の映像は、エキスパンデットにプロジェクションするように作られていて、その形はシンボリックなクルースのような形に見える。その形の中には美しい女性の顔や年老いたおばさんの顔がメタモルフォーゼしていくシーンもある。といって映像にストリー性を持たせようとしているのではなく。地球のあらゆる情景をフラッシュライトで、瞬間瞬間に照らし描くような捉え方をしている。そのため見る人がイメージを自由にふくらますことができる。そんなビデオインスタレーションされた空間で、二人の音楽家が音を奏でる。といって決して音が映像のバックグランドになるのではなく。音と映像が互いに独立した身体性を見せる。

 
シリーズミメーシスする身体-Vol.3
1998年2月9日〜14日(会場:ギャラリー・スペース21)
ビデオ・インスタレーションとパフォーマンス
「変換と変容」 
作・構成・映像:ヒグマ春夫
ゲスト出演:尾山修一(Sax)平石博一(作曲家)室野井洋子(舞踏家)
助成:芸術文化振興基金助成事業
協力:ギャラリー・スペース21

 
 白い寒冷紗が天井から床まで何枚も吊り下げられてある。観客はその一枚一枚の間を通り過ごしながら作品を鑑賞する。実は、こういった空間は映像によって構成されているのである。寒冷紗で立体的にインスタレーションされている空間に向かって、ビデオ・プロジェクターで投影する。プロジェクターから流れる映像は、自分自身の身体をデジタル化した映像であったり、アリが這い回る映像だったり、CG画像であったりとその種類は50種類も映し出されている。音は平石博一氏の作曲した音である。しかし、全てに音が有るというのではない。音があったり無かったりするこの空間は結構楽しめるらしい。観客は自身の身体に映像を映し手を動かしたり、立ったり座ったりしている。この作品は、立体的な映像の中を歩くことによって、インスタレーションを観ることから体感することになっている。
 「覗き見が共有されようとする瞬間」の発想から生まれた、作品「CruzBox」は、1998年2月9日から14日まで、新橋のギャラリー・スペース21に展示した。確かにこの作品は、展示する空間の大小によって様々な展開の可能性が考えられる。その点ではインスタレーションとしての作品ということもできる。また、一個一個を一つの作品として鑑賞することもできる。という意味からいうとオブジェ作品という事も言える。「CruzBox」の一つ一つの作品に描かれている絵は、一度映像として処理されたデジタル画像である。そして、その映像は、ビデオ・インスタレーションやコラボレィティブなどパフォーマンスを行うときに使われている。制約された時間軸で展開される映像作品を、「CruzBox」は自由な時間軸での鑑賞を可能にした作品でもある。
 クルスとは、十字架を意味する言葉だが、CruzBoxとは、CruzとBoxを一緒にした造語である。日本の紋所の中には、十字架を紋章化したものもある。それを久留子と呼んでいる。しかし、CruzBoxは、十字架やシンボリックな紋章とは意味を異にしている。実はCruzBoxとは、立方体からの発想によって生まれたのである。その起源は覗き見するという行為から始まっている。覗き見とは、とても個人的な行為であり、覗き見をした人にしかその実体は解らない。しかし、実はそうではないらしい。フィラデルフィア美術館にあるマルセル・デュシャンの「落ちる水」(1946-66)という作品は、節穴から覗いて見ることによつて成立する様になっている。覗いて見ると女性の裸体が滝を背にして仰向けになっている様にも見える。だかしばらく覗いていると不思議な気持ちになる。実はこの作品が置かれている場所は美術館であり、わたしの後には何人もの観客が並んで待つているのである。実はこういつたお客さんがわたしの覗いている様子を後ろから覗いているのではないか、という様な事が段々気になりだす。覗き見という個人的な行為が共有されようとしている瞬間に出くわすのである。「覗き見が共有されようとする瞬間」この感覚は何時もわたしの頭の隅に潜んでいた。1995年、世田谷美術館でグループ展があり、わたしは「I and You」という作品を出品した。この作品は、ドイツ制の大きなごみ入れを使ったものであった。そのごみ入れの中には、小さなモニターとモニターを拡大する。大きなレンズが設置されている。ごみ入れの周りには、沢山の昆虫のイラストと都市の写真が35ミリのマウントに収められ片隅を白い糸で結び、あたかも昆虫が床を這い回るかの様に100枚以上ちりばめてある。床のところどころには、2〜3センチに切り刻んだ藁をちりばめてある。わたしは、観客がどんな対応をするか遠くからじつと作品を覗いていた。ごみ入れの蓋のところに直径2センチにくりぬかれている穴があり、そこから沢山の観客が中を覗き込んでいた。「I and You」の様な中を覗いて観る作品は、佐倉市立美術館の企画展やIzumiwakuProjectの会場にも展示された。IzumiwakuProjectのころからは、ホームページやビデオ・カメラも加わり始めた。ビデオ・カメラは、覗いている観客の頭を撮る様に設置し、その撮った像を床の上のモニターに写しだした。覗き観している観客は、その様子がモニターに写されているにもかかわらず自分の目で確かめることは出来ない。覗き観している人は、耐えずどこかで誰かに覗かれている。そんな気がする作品である。ギャラリー・スペース21に出品した覗き観の作品(1996年)は、「Transform of Duchanp」として展示した。

 
シリーズミメーシスする身体[自然とテクノ]Vol.4
ビデオ・インスタレーション
会期:1999年2月8日(月)〜2月13日(土)(会場:ギャラリースペース21)
   時間:am.11:00〜pm.7:00(但し最終日は、pm.5:00まで)
Installation:ヒグマ春夫(映像)
コラボレーション出演:9(火)平石博一(音楽)
           10(水)岩名雅記(ダンス)
           11(木)平野晶広(ダンス)
           12(金)紙田昇(ダンス)
コラボレーティブ・パフォーマンス
日時:1999年3月4日(木)開演6:30〜(会場:ビクターニッパーズギンザB1ホール)
 1部=出演:佐土原台介(朗唱)+ヒグマ春夫(映像)
 2部=出演:室野井洋子(舞踏)+向井千恵(胡弓)+ヒグマ春夫(映像)
    3月5日(金)開演6:30〜
 1部=出演:さがゆき(ボーカル)+ヒグマ春夫(映像) 
 2部=出演:北野啓子(ダンス)+平石博一(音楽)+ヒグマ春夫(映像)
入場料:当日3,500円 前売り・予約3,000円 学生2,000円
主催:CT-Project
協力:ギャラリースペース21
   日本ビクター(株)
助成:芸術文化振興基金助成事業

 
 水はいつも身近な存在として、わたしの周りにある。にもかかわらず水について深く考えをめぐらすことは少なかった。しかし、映像を通して表現を試みる様になった頃から、何故かしら作品のタイトルに水という言葉が出てきていた。「水の響き」、「水のでんせつ」、「水鏡」、「水の記憶」、「地水火風空」等々である。作品のタイトルと水とが直接に関係を持っている作品もあるし、イメージだけの作品もある。今回は少し「水」を意識して作品を創ってみようと思った。最初は「水」そのモノの物質性ではなく「水」という漢字(記号)に焦点をあててみた。「水」(記号)はどういったイメージを、わたしに伝えているかである。わたしが思う「水」は、清水が湧き出る小さな池の水である。その池のほとりには大きな大木がそびえていて、こぼれ日が水面を輝やかせている。そこは何時もひんやりとした空気を漂わせている。そんな水の記憶をべースに、漢字の「水」に様々な映像を重ねてみた。そこで無意識に選びだされた映像には、女性の身体が多い。「水」と「女性」なにか関係がありそうである。人間を仰向けにし両足の足首を軽く握り引っ張る様に左右に揺らすと、身体が水まくらの様に揺れる。人間がほとんど水分によって構成されていることが解る。「水」と「water」この対比も気になる問題である。わたしが「水」という時の背景には、日本古来の「水の神様」的な印象がある。元来、日本の伝説には五元素が神様になってるところが多い。しかし、「water」といった場合は、神秘性はなく、水道の蛇口から溢れ出る水のイメージがある。「水」をもっと知りたいと思って考えたのが、海と陸との狭間を問題にすることだった。まず海と陸との狭間に自分の身を置いてみよう。そこで何をするか、何を考えるかを探ってみようと思った。実際にその狭間に立ってみるととても気持ちの良いことがわかった。砂に腰を据えごろっとしてしまう。そして、海を眺める。海を眺めていると、波がなんどもなんども押し寄せてくる。その波の繰り返しは、わたしを飽きさせることはない。「反復という表現行為」と「ミメーシスする身体」が、わたしの脳裡でつながる。海を眺めているともっといろんなことを考える。例えば、太古の昔のこと、水平線の向こうのこと、波の裏側のこと、等々である。確かに海はわたしに解放感を与えてくれる。

 
シリーズミメーシスする身体[気とかたち]Vol.5
ビデオ・インスタレーション
会期:2000年2月1日(火)〜2月11日(金)(会場:ギャラリースペース21)
   時間:am.11:00〜pm.7:00(但し最終日は、pm.5:00まで)
Installation:ヒグマ春夫(映像)
コラボレーション出演:7(月)/11(金)樋口まい
           8(火)不動まゆう(ダンス)
           10(木)和希(ダンス)
コラボレーティブ・パフォーマンス
日時:2000年2月14(月)/15(火)開演7時(会場:ビクターニッパーズギンザB1ホール)
 2/14「水の絶対視」
 出演:樋口まい(ダンス)+平石博一(音楽)+ヒグマ春夫(映像)
 2/15「Beyond Boundaries」
 出演:室野井洋子(舞踏)+紙田昇(舞踏・ダンス)+平石博一(音楽)+ヒグマ春夫(映像)
入場料:当日3,500円 前売り・予約3,000円 学生2,000円
主催:CT-Project
協力:ギャラリースペース21
   日本ビクター(株)
助成:芸術文化振興基金助成事業

 
 夜の都市は、不思議と幻想的である。ビルの窓に明かりがぽつりぽつりとついていると、あそこで何をしているのだろうという思いが先立つ、昼間とはその想像の範疇が比較にならないほど違うのだ。それは、窓に光がぽつりぽつりと見えるからだけではなく。目を瞑ればいっだって闇夜になるからでもなく。夜という暗闇がそうさせるのかもしれない。不思議と窓越しの光は、人間の身体を想像してしまう。そこに人影がみえるとかある種の覗きの瞬間とかいうこのではない。まだ見ぬ向こうの世界を想像してしまうのだ。同じ光でも夜の都市のネオンは少し違う。ネオンの光からは人の気配を感じないのだ。たとえそれが繁華街のネオンであったとしても。確かに私たちは、光りを求めて世界をさまよい歩いているのかもしれない。そこには目に見える光もある。が、たいてい目にすることの出来ない光を追い求めている。目に見えない世界が突然の死という衝撃的な出合いであったとしても、予測つかない見えぬ光を追い求めている。
 シリーズミメーシスす身体として始まったこのプロジェクトも今回で5回目をむかえる。丁度3年目になる。その目的は、映像による身体性を追い求めることであった。「映像による身体性の追求」このとても漠然としたテーマで、やはり目にすることの出来ない光りの世界と近しいところがある。その見えない世界を見ようとする営為として、これまで行ってきたこと、それは、1.映像の立体化であり、2.自己意識の改革であり、3.増殖する身体であり、4.フィードバックによる新たな身体の発見であり、5.リアルタイムを映し出すことであり、6.等身大以上にプロジェクションすることであった。こういったことは、フィールドワークやパフォーマンスやインスタレーションやワークショップやショウイングという方法で展開された。そして、細部をよりいっそう明確にして行く作業として、あるいはよりいっそう複雑にし複雑にすることで新たな意識改革を行う方法として、コラボレーションも取り入れてきた。そういったことに対する結論は現在進行形である。ただ複雑さの中に、うっすらとぼやけてはいるが現れつつある予感はする。その見えない光の存在は、幾層ものフイルターに包まれている。その一つ一つのフイルターが、各々まつたく違った性格であったり、互いにネットワークで結ばれていたりもしている。

 
シリーズミメーシスする身体[デジタルとアナログ]Vol.6
ビデオ・インスタレーション
会期:2001年2月5日(月)〜2月11日(日)12:00~20:00(会場:Oギャラリー)
Video Installation:ヒグマ春夫
コラボレーティブ・パフォーマンス
日時:2001年3月19(月)/20(火)開演7時(会場:キッド・アイラック・アート・ホール)
「水と四つの月」
 作・構想・映像:ヒグマ春夫
 出演:宮下恵美子、深谷正子、武田英子、伊藤郁女+平石博一(音楽)
入場料:当日3,000円 前売り・予約2,500円 学生2,000円
主催:CT-Project
協力:キッド・アイラック・アート・ホール、Oギャラリー
助成:芸術文化振興基金助成事業

 
 水には以前から興味があった。水が謎めいているからかも知れない。水が世界を写し込む鏡だからかも知れない。あるいは、幼児体験が水と厳しく関わる生活だったからかも知れない。厳しく水と接するとは、水が豊富で浴びるようにあると云うのとは違う。水が岩の隙間からチョロチョロと流れでていて、その水を桶にくみ大切に使う生活である。水は貴重なものである。わたしが水にこだわる理由は、貴重な水にあるような気がする。大木に耳を近付けると、水の動く音がするのを聞いたことがある。大地に耳を近付けると水脈の鼓動が聞こえると云う。
「唯一この地球上で可能性があるとすれば、それは海だけである。」と云う言葉をみつけた。可能性と云うキーワードを持って海を見にいった。それは、千葉県の九十九里浜海岸であった。海を見たのが始めてだった訳ではない。しかし、貴重な水に比べると貴重の度合いが違っていた。貴重な水に接する時と、海の水に接する時とは、何かが違う。海の水を前にして、押し寄せてはひきかえす波の動きを見ていると、波動を感じる。波動が中心に集中し、「球体の波」が浮遊しだしだしている。波動の円環との出会い。そこは海と陸との狭間であった。