Haruo Higuma Exhibition / Feeling · Art - SEIMEI
May 19 Thursday - June 21 Tuesday / BEAMS JAPAN 6th floor B Gallery

Installation & Performance
Performance:出演者:増田直行(音楽)、大山正道(音楽)、宮下恵美子(身体)、佐藤源紀(音楽)、広瀬まゆこ(身体)、KYOKO(衣装)、北村誠(音楽)、紙田昇(身体)、加藤千晴(音楽)、喜多尾浩代(身体)

SEIMEIの館-装置としてのインスタレーション

今回のインスタレーションを、全体として「SEIMEIの館」とした。このSEIMEIの館には、素朴なインターラクティブを喚起させる要素が幾つもある。リアルタイム、ディファレンス、採取、成長、リップル、ドローイング、投影、等々がそれにあたる。このシステムと積極的に関わりを持って観賞することで、SEIMEI=身体性が露になる。では、そこにどんな身体性が現れてくのだろうか。そのことは体験して考えて欲しい。

今回はインスタレーションという手法意外に、パフォーマンスというプログラムを幾つか組み込んだ。パフォーマンスは、ダンサーだったり音楽家だったりする。あるいは、ダンサーでもなく音楽家でもなく身体そのものという人もいる。身体、音楽、衣装、あるいは美術の表現者である。

そこで、身体性を大きく二つに分けて考えて見ることにした。一つは、ダンサーや音楽家の身体性、いわゆる表現を意識して営為する身体性である。もう一つは、作品を観賞する身体や作品を制作する身体、いわゆる表現を意識しない無意識な身体性である。無意識な身体性でも、表現する身体がある瞬間、陶酔し無意識な状態になることがあるがそのこととは区別して捉えている

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パフォーマンスを実践したアーティストに、感想なり、解釈なり、思い込みなりを語って頂けたらと思う。

「SEIMEIの館」の制作者として、あるいは、企画者として、一連の流れを客観的に描写することは難しいが、感じた旨を記述してみたいと思う。

既存の概念として、作品は完成された状態で提示されるのが、日々変化していく作品として考えた。物質的にカイワレ大根は日々成長する。水は循環している。生きている物質が、インスタレーションに組み込まれている。という事実から、既存の美術作品との違いが浮上してくるだろうと推測している。

ひとつは、時間の捉え方である。もうひとつは、空間の捉え方である。そのことを具現化して見せたのがパフォーマンスである。パフォーマンスは、身体を露にする表現手法の一つだが、身体性の考察にとどまらず、時間性や空間性をも露にする。インスタレーションを身体性の観点で見る必要性を示唆している。そのことで、装置としてのインスタレーションとして捉えることになる。

ぶらぶらと街や公園を散策していると、アレッという場面に出くわしたり、想像したりする。それが全て新たなモノを想像しているのかと思えばそうでもなくって、過去の記憶を紐解いているような感じでもある。どちらにしてもその瞬間、何かを発見しているのは間違いない。

わたしの作品に『Difference』というのがある。紗幕のスクリーンを天井から何枚も等間隔に吊り下げ、両サイドからプロジェクターで映像を投影するインスタレーションである。観賞するには、映像を浴びたり、断ち切ったりすることになる。映像を浴びると自身の身体に画像が映る身体として見える。当然、自分に投影された画像は、自分で見ることはできないので、他者に映っている画像を見て確認することになるが、映像の粒子を受けている実感はある。また、映像を自身の身体で断ち切ると、向いのスクリーンに影ができる。両サイドからプロジェクターで投影しているので、影の部分に他の画像が映り、入れ子状態の画像と出会う。好むと好まざるとに関係なく、インスタレーションの中に入り込むことになり、作品を観ると同時に作品を身体で感じる。装置としてのインスタレーションは、自身の身体で感じると同時に、感じた身体性を自身で描写することではないだろうか。インヴェンション。

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リアルタイム:エレベーターや街中等に設置された防犯カメラは、どこかで誰かにモニターされている。「SEIMEIの館」は段ボールで出来ている。内部にカメラが設置してあり、その画像は外のモニターに映し出されている。その映像は、リアルタイムの画像でありながら肉眼で見る光景とは違う。その違いは、カメラのフイルターを通過させているからだ。カメラのフイルターを通過させると情報が鮮明になる。情報が鮮明になるのは、微妙なズレが生じているからである。この違いは、映像に撮られた自分の顔と鏡で見る自分の顔とを比較して見るとよくわかる。あるいは、水中を覗いてもいいだろう。

ディファレンス:吊り下げられたスクリーンに映像を投影すると、大きさを違えてスクリーンの数だけ画像が現れる。今回は、2枚のスクリーンを吊り下げ映像を投影した。二つの映像は同じものだが大きさが違う。透視図を描いているのである。映像の出発点を背にスクリーンの前に立つと、スクリーンに自分の影が現れその違いが際立つ。
「Difference/Plane」は、同じ写真を2枚並べて差異を表出しようとしている。1枚のビンは青色にもう1枚のビンは赤色にドローイングしている。青は静脈を現し赤は動脈を意味している。この作品の切っ掛けになったのは、ジル・ドゥルーズの哲学「差異と反復」がテキストになっている。その一節を紹介すると『間違い探しゲームを考えてみる。二つの絵があって、違うところを探し当てるゲームである。間違いは、どこにあるのか。片方をオリジナルとすれば、もう片方はコピーである。片方が本物なら、もう片方はまがい物である。では、間違いは、コピーとまがい物の側にあるのか。コピーとまがい物が、間違っているのか。そんなことはない。両者の違いは、間違いなく、両者の間にある。差異は、両者の間にあるのだ。では、差異はどこから出現するのか。間違い探しの制作過程を考えてみる。制作者は、差異を出現させる為に二つの絵を書く。しかし制作者の意図が、差異を出現させるのではない。その意図がなくても、二つの絵を描くと、必ずどこかに差異が出現する。たとえ瓜二つであっても、出来上がる時間と空間に差異がある。二つの絵が出現するということは、差異が出現することである。むしろ差異こそが、二つの絵を分化して現実化するのだ。差異の哲学の基本的な問いは、このような差異が、どこから出現するかということである。』(「ジル・ドゥルーズの哲学」小泉義之訳書)

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採集:短期間で東京23区の水を採集した。驚いたのは、東京の水は簡単に手に入らないということだった。コンビンや自動販売機でペットボトルに入った水を買えば話は別だが、結果的に採集現場は公園が多かった。その理由として小さな水路は蓋がされている。公園も繁華街の公園には水道が無いところが多い。本来、水は循環しているものだ。雨として地に降り、川となって流れ、動植物の身体の中を巡り、海に注ぎ、再び天に戻る。そんな水には表情がある。その表情は周りの環境を写し込んでいる。環境が破壊され汚染するとその水も影響受ける。水は生き物にとって無くてはならない存在なのだ。このような水を採集し、採集現場での身体記憶や心の眼がカミ的心性と出会う時、フィールドは無限に拡がる。*カミ的心性とは万物には生命が宿っているいうことを想定している。短期間で東京23区の水を採集したが、半数は水道の水を採集することになった。今回は、採集を求めて移動する身体の経験であった。

成長:カイワレ大根の種は茶褐色をしていた。茶褐色の種を白いフィールドの上に並べた。そして水をかけて寝かせた。一日が経った。幾つかの茶褐色の種に白いこぶが出来ていた。二日経った。白いこぶの種の数が増えた。三日目、種の白いこぶの幾つかは黒ずんだ緑になっていた。四日目になった。黒ずんだ緑と明るい緑の種がランダムに寝っ転がっていた。日が経つに従って種は変容し、時間と空間の主人公になっていった。総てが同じ時間を共有し、全てが光に向って成長している。だが、かぎられた光しかなく、その光がプロジェクターから投影される映像の光だったりすると、カイワレ大根の発芽は苦悩する。光が散漫で方向性を見失っている。まるで台風が過ぎ去った稲畑けのようである。

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リップル:小さなコップに水滴が落ちる。その度に波紋が拡がる。コップの枠をはみだして波動は宇宙を駆け巡る。この様子は、カメラで捉えられ外のモニターにリアルタイムで映し出されているが、生な水滴とモニターの画像を同時に眺めることはできない。内と外、表と裏を同時に観ることが不可能なように・・・。

ドローイング:「SEIMEIの館」は、歪んだ段ボールで出来ている。その表面に一筆書きで線を描く。この線はずっとつづく・・・。

投影:吊り下げれれた2枚のスクリーンに映像を投影している。映像の出発点と到達点では画像の大きさが違う。その出発点と到達点の間には、眼には見えない情報の粒子が飛び交っている。その間に立つと自分の影が到達点のスクリーンに写る。影は映像と融合し、自分自身が映像と一体になった感触を味わう。ついつい手を上げたり頭を動かしたりする。映像を投影するとは、単に等身大以上の画像をつくりだすことだけではない。画像とそうでない微妙な世界を表出させることになる。差異が生まれる空間の実験なのだ。

<身体性の観点でインスタレーションを見る> 覗いてみる。SEIMEIの館には、幾つか穴があいていて、そこから内部を覗くことができる。覗く姿は無防備である。展示してある水の入ったビンをパフォーマ-が持つ仕草をする。展示してある「Difference/Plane」に頭を付け何か祈るような仕草をする。水滴に手を差し伸べている人がいる。そういった様子は外部のモニターに映し出されている。パフォーマーは会場を動き回っている。そのつど身体を動かさないとパフォーマーを見過ごす。だが同じ場所でもパフォーマンスの雰囲気はつかめる。心眼がある。

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クボザイク日記(6月5日) 本日は、ヒグマ春夫さんの展覧会へ行った。
ヒグマ春夫・展/感じて・アート/SEIMEI
B gallery(新宿BEAMS JAPAN)
パフォーマンス 18:00より 身体:紙田昇

 ヒグマさんの展覧会&パフォーマンスを拝見するのは、これで3回目!表参道にあるギャラリーGANのパフォーマンス以来である。見たものは、2回とも広瀬まゆこさんというパフォーマーと、ヒグマさんの映像がコラボレーションするというものであった。初めて見た、明大前のキッド・アイラック・ホールでは、数枚の透かした布にヒグマさんの映像を投射しているスペースだったので、布のあいだを広瀬さんが動き、身体にヒグマさんの映像が映ったり、広瀬さんの影が大きく映し出されたりして、面白かった。
表参道では、ギャラリーGANでの守屋行彬展の会場内で行われた。守屋さんのマチスのダンスをかたどった鉄の作品とヒグマさんの映像、広瀬さんのパフォーマンスだった。作品と映像と身体が響きあって、明大前のときよりも面白く、こちらのほうが僕としては良かった。
さて、本日は、紙田昇さんの身体表現とヴァイオリンのパフォーマンスであった。その前に、会場に触れておくと、BEAMSは、おしゃれな洋服屋である。この時点で、今までとは違い面白い!隣で洋服が売っているのである。そこに、ヒグマさんの水の作品がある。今回は、東京で搾取した水が展示されていた。ヒグマさんの「水」は、奥が深いです。水には、その土地の記憶というか、いろいろな偶然が重なって作られている。水溜りにしろ、プールの水にしろ、それぞれ性格があるのだ。展示されている「水」を前にして、自分は、「うーん、深い!まるで、スルメみたいな作品だ!噛めば噛むほど、味が出る!」そんな印象を持った。
中央には、段ボールで壁が作られていて一見わからないがまわってみると、なんとまぁ「みずみずしい作品空間があった」実にみずみずしく、映像も以前より涼しげである。
下には、かいわれ大根みたいな植物がたくましくも育っている。今回のテーマが、「生命」って事なので、水と植物なのだろう。見た目にもきれいで涼しげな作品である。
そんなスペースで、突然、パフォーマンスは始まった。ヴァイオリンを持った人が、空間を確かめるように、音を出している。地ならしをしているようだ。「何か始まるぞ」って感じで、人が集まってくる。そんなの関係なく、かいわれ大根のスペースが気に入っている女子2人は、そのまま中にいたまま。いつのまにか、紙田さんが登場していたようであった。
僕がいるところからでは、ヴァイオリンしか見えない。さて、主役がそろってパフォーマンスがいつのまにか始まった。パフォーマーは空間の空気を感じるような微調整。舞踏などは、このつかみのような時間が面白い!おそらく、パフォーマーと鑑賞者がお互いに、探りを入れている時間である。そのうち、空間と音楽と身体が融合されていく。今回、イニシアティヴは、ヴァイオリンにあるようだ。音にあわせて、身体が空間とコラボレーションする感じ。そのうち、紙田さんが展示してある水などをいじる。
展示物などをいじるのが終わると、「きたー」って感じで、鑑賞している人をいじりに来る。僕はいじられるのが、(シャイなため)大の苦手で、「俺をいじるなオーラ」が効いたのか、自分に向けてきたが横に逸れてくれた。横のおじさんの肩をたたいたりする。その後、また空間に戻り、「かいわれ大根」のスペースに入る。パフォーマンスが始まっても我関せずであった女子2人は、いつのまにかいなくなっていて、紙田さんが展示物のぶら下がっているコップを揺らしているのが、シルエットでわかる。
そして、いよいよ最後のまとめである。僕個人的に、どのようにまとめるのか楽しみである。最後は、さすがであった。ヴァイオリンにイニシアティブを取られるというよりも、バイオリンの音に身体の表現をずーとあわせて動かしているのである。指先から、足先まで感覚を研ぎ澄ませているようだ。音と身体が重なっていくように、静かに終わった。今回も面白かった!
  (窪田修 クボザイク)

  <感想です/紙田昇>
・「水」はもちろんテーマであるが、「水」とひとくくりにするのではなく、あの会場にあったさまざまな水、「○○池の水」「○○町の水」という「水」の違いまでも感じ、表 現ができればという自分なりのテーマをもっていたが、とても難しかった。
・感じるということからすべてスタートしようということは、キープできたのでこれはよい。
・ただ、どこまで感じるか、どのような世界を感受できたかということについてはパフォーミングしている時間感覚の中では、十分とはいえない。
・次に、感じたものをよくOUTPUTできているかということについては、はるかにまたまだできていない。
・今回は、そういう「感じる」というアプローチ自体が、少なくとも本番では初めての試みなので、そのテーマを行為中も維持できたので、甘いかもしれないが、55点はあげてもよい。50点ははその維持に対して。5点はインスピレーションに触れたと思えるような時間に対して。逆にマイナスの45点は、OUTPUTのひどさ・未熟さに対して。
・インスタレーションとともに、音・音楽に対しても、同様アプローチがなんとか成立したようには思う。しかし、甘い音楽ではなく、「どう感じていいのか」を安易につかませてはくれなかった。感じるままにつかんでいったというところか。「見る」「把握する」ということよりも、「自分の中に取り入れていく」という言葉になる以前のデータにいかに自分をチューニングできるかが、まだまだできないなあ。少ない時間の中で急ぐとさらに表層的にものしかつかむことができない。さりとて、時間をかければよいというものではなくさっと焦点をあわせられるフォーカス力が必要だなあ。
・ビデオでパフォーマンスを自分なりに振り返ってみたが、上記のアプローチが写っているようには見えず、ビデオを判断材料にするのは、あきらめた。
http://www.kamita.net/kdance/

  <感想/喜多尾 浩代>
今回は、会期中に約1ヶ月かけて思考する時間があったので、ヒグマさんの作り出した環境に身を置いて反応するだけでは無く、少々主張ある挑戦的なパフォーマンスとなりました。でも、あくまで現場で感じることを優先したかったので、即興パフォーマンスではあるのですが....、作品の中から何かを読み取り、それについて主体的に思考してみるというプロセスを経た身体で挑みました。そんな身体が(即興パフォーマンスの現場で出逢える)様々な刺激に対して起こす反応や、その発展としてのイマジネーションは、感覚受容器にフィルターをかけていないものの、やはりOUTPUTとされる「身体の有り様」が、ある方向性を持っていたように思います。そして、それは決して意図的では無く、滲み出るように発生して、観る側にも伝わっていたということが 面白かったです。
衣裳も、1ヶ月かけてディスカッションした後に制作に取り組んでもらったものだったので、我々には衣裳は肉そのもの(安心できない衣裳)だったのですが、仕上げた物をもう一度(冷静な目で、または 客観視できるヒトの目で)検証する時間が必要だったと思っています。生肉がレースの服にくっついているとは、なかなか思えないのか見えないのか、(安心できる衣裳 と 安心できない衣裳 の際が現れたかどうかは不明ですが)どうやら観る側の認識は、匂いと時間経過とともに変化していたようでした。私としては、もしパフォーマンス中に、リアルな嘘の肉体部分 や アンリアルな本当の肉体部分 とも関われていたら、もっと衣裳の効果があったのにノ と 少々反省しています。(衣裳を担当してくれた 太田さん 牧野さん、御免なさいね!)でも、今までの即興のパフォーマンスの中で最も ずっしり していたように見えたらしく、持ち帰るものが多くあった という感想を聞けたのは、非常に嬉しかったのです。
今回は、ヒグマさんの文章にもあったように、インスタレーション+パフォーマンスの現場にSEIMEI:身体性ある反応そのものを 時間と空間の共有結果として発生させたかったのです。観るつもりが、参加していて、思わず細胞が反応している、という事を狙いとしてのパフォーマンスは成立していたのか?この問いに対する回答は、ビデオにも写真にも写らないので、観たヒトの感想を是非入手したいと思います。ただ、導入部分で確かに多くのヒトが、私の動きだけではなく、引っ張られる肉片の上に載せられた紙の文字や、髪や服につけられたタグの文字を観る為に、普通ではあり得ない距離の処まで近付いて来ているのを感じ取った時に、衝動に身を任せて行動してしまうというSEIMEI をその現場で感じ取れ、私にとって嬉しい瞬間として記憶に残っています。
余地を残したヒグマさんのインスタレーションには、色んな問いかけが潜んでいるように感じとれ、実際に一周廻るごとに発見が有り、また毎週(きっと日々)変化していました。そんな中で、徐々にリアルとアンリアルな感覚の共存、また 何かに安心を求めて認知する自分を見つけ出していたのです。あれれれ?????写真は同じじゃないように思おうとしている!瓶の水はラベルによって風景の場所の水と思おうとしている! それは、とっても素直だけど、安心することを求めている潜在意識が働いているのでは? そんな、納得する方向への心理に少し光を当てながら、様々な状態の際とそこに起る身体性を自分に問いかけ、あくまで SEIMEI 体で、身体感覚を重視してパフォーマンスすることにしてみました。ということで、実は、SEIMEI というテーマに加えて、今回の私の中で取り組んでいたテーマは「際身(キワミ)」であったのですが、これは結構いい感じで取り組め、その状態を保ち続けることができたと思っています。
今回も、即興パフォーマンスにおいて感じたものを十分にOUTPUTできているか? ということについては、まだまだ出来ていないとは思うのですが、出逢ったものを自分の中に取り入れていくと同時に、共有する空間に還元させていくなかで、安心し切れない&枠に納まらない身体性の提示が、音楽の必要性を特に感じない(感じさせない)30分を成立させたのかもしれない!と思っています。ただ、他者のパフォーマンスを観ている時に、私がSEIMEI に出逢ったシーンは、体性感覚(ミラー・ニューロン?)を介して鮮明に記憶されていたようで、無意識的に同じ様なシーンを形成している自分の身体に気付いた時に、焦燥感にかられてやり遂げられなかったシーンが確かに有りました。自分が感じて行動や動きを起こした(OUTPUTした)つもりが、そうでないことに気付いた時に、それでもやりと通した方が良いのか、中断してでも感じなおした方が良いのか? 答えは出ていないのですが、実は、パフォーマンスの最中に頭の中が大変な事態だったのには、正直 参りました。(その辺りは、するりと逃げたかもです!やだなあ~)
そんな訳で、テーマを大事にして挑んだ今回のパフォーマンスは、色々と課題は残したものの、非常に多くの気付きを自分自信に与えてくれるものでした。そんな機会を与えて下さったヒグマさんに、(文末になってしまいましたが) 感謝の気持ちを伝えたいと思います。どうも有難うございました!
http://www.nsknet.or.jp/~kitao

<感想です/宮下恵美子>
今迄の経験から<関わる>事で現れるパフォーマンスの面白さ・難しさを実感してます。まるで人間関係のようです。なので、<関わる>事を<動き>にしてみようと試みました。今回の<関わる>入り口は<水>と<人>でした。<水>=身体中にある水分の感触を払拭させ、特に重さの感触を具体的に動きに還元させる意味であのようなものを纏いました。しかし、素材は的確だったか?まだ試行錯誤する必要があったということで50点です。<人>=「SEIMEIの館」とその廻りの温度差、観客と自分の間のポテンシャルに注意深くなる事でどのような<動き>が現れるのか_という事を仕掛けました。パフォーマンス中は、そこにあるモノに反応してしまう身体をどう扱うか_、つまり、反応した身体をその後<動き>となり、その<動き>をどのように繋げていくか_反応する身体に留まることなく繋げていくにはどうしたらいいのだろう・・・と思考し続けていたように思います。 音楽、観客、ガラス越しにいるショッピングに来た人、店員、私を撮影している阿波根さんが同時多発的にパフォーマンスに参加している感覚がありました。この感覚は、観察されている感覚で、同時に私も他者を観察していたのです。これがインタラクティブのひとつの有り様なのでしょうか?お互い無関係・無関心ではいられない状況が30分続いたかどうか?知りたいものです。入口は<水>と<人>でしたが、<貝割れ><段ボールの穴の先><ギャラリーと店舗の境目><TV>・・と至る所に要素があり、やりながらその要素を身体が選んでいたように思います。 今回の動きはすべてそこにいる人とインスタレーションの構造に関わる事から現わそうと試みたのですが、それが現れていたのかどうか・・どうだったのか?知りたいものです。自己判断では、反応の速度によるのですがどんな意味でもその試みは続いたと思うのですが。終わって思う事は、 試みた事が現れていたか_という事ではなく、<関わった>その先が見たいのです。その意味ではパフォーマンス終り直前に垣間見られた感があるのですが・・、果たして現れていたのかどうか?知りたいものです。採取された水と壁のプリントアウトの構造から私と具体的に結びつく事柄を見つけてパフォーマンスする事があると気が付きました。これの方がレンジは拡がるかもしれません。  

<感想>
作品の中から動きのモチベーションを取り出し、それを輻輳させていくのがカノンのようでおもしろかった。青い水は、途中でこぼれるだろうなとは思っていましたが、でも水が漏れ始めて足を 滴っていくのを見て、ああこれは血なんだというのがわかりました。あと、先日は言いませんでしたが、ああいう場では、たぶん人によって見てるところ がぜんぜん違うのだろうというのを感じました。見る位置をどこにとるかで、その人のスタンスがなんとなくわかります。 とにかく追っかけて動く人、あまり動かずに気配を感じている人、お店の側から遠目 で見てる人とか。そのタイプの違う人たちを利用した演出のしかたがあるかもしれません。(松永)