ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト

LIG INC.
 ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.76より

海べの知覚/Perception on a fractal line

東日本大震災で海岸線は、甚大な被害を受けました。あれから5年の歳月が経ちました。
今、海べで何が起きているのか?
     何が起ころうとしているのか?
     何が起きたのか?

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.76
日時:2016年3月31日(水)Start 19:30
会場:キッドアイラックアートホール
   映像パフォーマンス・ヒグマ春夫
   音楽・伽藍(井上史郎+山内勝司)

「映像パラダイムシフト」は、映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、 といったようなことを追究しています。


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報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

舞台左前から右奥上に向かって、一本のロープが張られている。これだけで充分なインスタレーションが形成されてしまうのが、ヒグマの公演の特徴である。伽藍の井上は右側でヴァイオリンを、山内は左側でベースを奏でている。後方壁面には海岸で木片を用いて穴を掘る女性のパフォーマンスが映し出されている。

左上には異なるプロジェクターから、加工された波の実写映像が映し出されている。後方壁面と左上の映像には、時にはサイケ調の静止画が挿入されている。伽藍は持続音を発し続ける。ヒグマはキャリーバッグを引きながら舞台へ向かう。奥に到着するとバッグから白い防護服を取り出し、客席に背を向けて身に纏う。

左上の映像は波の実写と石のモノクロ写真が二重写しとなる。後方壁面の映像は海岸の藻屑のモノクロ動画になっている。ヒグマは防護服に赤いマジックインクを用いて、胸元から線を引いていく。映像は開始当初に戻る。伽藍はヒグマのパフォーマンスを見ながら、微細に音に変化を与えている。音が小さくなり、僅かなハウリングのみが空間を支配する。

ヒグマは黒いマジックで左手、左胸と左側に線を引いていく。肩、首の後ろ、頭には全て線を引く。山内はボーイングする手を止め、ヒグマのパフォーマンスを見詰めている。井上も次いで止まると、ヒグマの発するマジックが擦ることが響き渡る。ヒグマは青いマジックに持ち替え、今度は自己の体の右半分に線を引き始める。

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ヒグマは黒いマジックで左手、左胸と左側に線を引いていく。肩、首の後ろ、頭には全て線を引く。山内はボーイングする手を止め、ヒグマのパフォーマンスを見詰めている。井上も次いで止まると、ヒグマの発するマジックが擦ることが響き渡る。ヒグマは青いマジックに持ち替え、今度は自己の体の右半分に線を引き始める。

ヒグマは客席に背を向け、背中に横線を引く。黄色いマジックに持ち替え、前、後ろと線を引き続ける。伽藍の二人は沈黙を利用しながら演奏を続ける。ヒグマは緑色のマジックに持ち替える。移りゆく映像と伽藍の持続音とヒグマのパフォーマンスは静かに一体化している。ヒグマはマジックを止め、中央で客席に背を向けて立つ。

背を向けたまま、防護服を脱ぐ。青いライトが舞台を隈なく照らす。ヒグマはロープを外し、脱いだ防護服をロープに洗濯バサミでつけて再び張ると、防護服は丁度中央に吊るされた形となる。伽藍の演奏の音量が増す。ヒグマはコントローラの場所に戻る。

伽藍の音楽とは、二人の息が合わないと成立しない。ボーイングは速度や強さをほんの僅かでも変えてしまうと音に多大な影響を与えてしまう。つまり二人で行うことはそれぞれの個性が強く反映してしまうので、水と油のように反発してしまうのだ。

ヒグマは後方壁面の映像を、海岸でパフォーマンスする女性に戻す。時折挿入されるサイケ調の写真が映像の物語性を強調する。物語のない物語が綿密に計算され、プログラムされている。サイケ調の写真は全く異なるにもかかわらず、二つの映像を行き来しているようにも感じられる。異なる次元を自在に泳いでいる。

伽藍はボーイングの速度を落とすが、音の面積の広さは保持している。後方壁面の映像には大きな円柱のビーカーで海水を汲み上げるパフォーマンスから、無数のペットボトルを砂に埋めた中央で座る女性のパフォーマンスへと移行する。女性は膝立ちし、ペットボトルを砂で埋めていく。

伽藍の音楽の質量が軽くなる。後方壁面のパフォーマンスの映像に、座標軸と石畳、縄文土器といった全く関連性のない映像が小窓として二重投影される。ここにはCGのミサイルが飛んでは落ちる物語が隠されている。パフォーマンスの映像の女性は、自らにも砂をかけていく。伽藍の音は薄くなったかと思うと密度が増している。

パフォーマンスの映像の女性は踊る。伽藍の音の濃度が変化する。インスタレーションのロープと同じ角度で、右上から左下に白い光が三本挿入される。左側の映像は、波の実写にオレンジ色の海が二重写しとなる。突如、ヒグマは映像を閉じる。「海べの近く」というテロップが流れる。演奏と光が止まり、45分の公演は終了する。


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綿密に計算された録画映像と、予め用意されたヒグマのパフォーマンス、即興の伽藍の演奏が入り込みながら交じり合い、反駁することなく初めから分離しているという、摩訶不思議な公演となった。異なる要素が混じるか反発するかという見解がそもそも間違っているのかもしれない。

それは映像、パフォーマンス、演奏がそれぞれに、その瞬間ごとに、これまでの自己と全く異なる様相に変容しているためである。それぞれが一元的に唯漠然と時が過ぎているのではない。瞬時に転換している姿を、見逃す/聴き逃すことはできない。すると、二元論どころではなく、莫大な数値の変化が公演中に起こっていたこととなる。

この変容は公演で特別に行われるのではなく、実は日常の中でも起こっている。我々がそれを自覚することは難しい。自覚すれば、気をとられて生活が不可能となるからだ。一人の心の襞は世界中に波紋し、世界はちっぽけな一人の人間にも作用する。この振幅を意識して生きることが、世界の変革に繋がることは確かなのである。

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Higuma Haruo(Artist)
'90年度文化庁派遣芸術家在外研修員ニューヨークその成果発表を’08年「DOMANI・明日」展(国立新美術館)。映像が介在する表現に固執し「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」を継続中。他にコラボレーション企画「ACKid」、「連鎖する日常/あるいは非日常・展」がある。


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