ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト

LIG INC.
 影:山口敦


ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.78/2016.5.21
Juliets,once upon a time?
ゲスト:構想・茅根利安(ココロノキンセンアワー)+丹下一(Tama+ project)/テキスト・丹下一+Juliets/構成演出・丹下一
出演:茅根利安with橋本識帆、おおたなるみ、泉田茉菜、結城千夏、加藤瑞希、伊藤幸
映像インスタレーション:ヒグマ春夫

照明:早川誠司
撮影:山口敦
会場:キッド・アイラック・アート・ホール

「映像パラダイムシフト」は、映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、 といったようなことを追究しています。

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報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

2m×1.5mほどの紗幕が四枚、頭上に奥から手前へと連なる。客席側のプロジェクターから発せられた映像(以下、後方壁面の映像)は、四枚の紗幕を突き破り後方壁面へ到達する。舞台後方壁面の右寄りにもプロジェクターが、客席を向いて斜めに設置されている。ここからの映像(以下、後方壁面からの映像)も四枚の紗幕を通り抜け、左壁面に突き刺さる。

後方壁面に、立ち昇る炎のようなCGが投影されている。茅根は左壁面付近に立ち、六人の女優は小さなパイプ椅子に腰をかけ、被災地の噂話をしている。例えば賞味期限切れの御握りを食べること。その様子のライブ映像が、後方壁面からこちらへ注がれていく。双方の映像とも、加工された水面のCGが背景と二重映しになっているように見える。

六人の女優は壁面に椅子を引き、その上に立って沈黙する。後方壁面からの映像は、ライブからピンク地のサイケ調のCGと黒い波型の文様が蠢くCGが重なる。黒い波型はオレンジ色に変化し、燃え上がるような動きを見せる。後方壁面の映像は、背景のモノクロ写真が二重映しとなっている。

茅根は音もなく右側へ移動し、中央へ引き返し、溜息をつき、台詞を静かに読む。「あれから5年。正確には5年と二月。1898日5時間15分。45060時間と15分」。女優達は茅根が読み上げた台詞に対して、白髪だとすれば、とか、抜けば良いのでは、などと連想して話す。茅根は「歳をとった」といい、女優達は数字を再構成して述べていく。

「半減期までに皆気化してしまう」。「極限まで熱してみればいい」。女優達は椅子から降りる。テレビの通販番組のパロディが始まる。商品は「フレシキブル・コンテナ・バッグ」。略して「フレコン」である。フレコンは荷重1トンを積むことが出来る。実際のフレコンを茅根が取り出す。女優6人がすっぽりと入ってしまった。

この様子を捉えたライブ映像が、後方壁面に投影される。茅根は説明を続ける。「フレコンは、3.11以後、需要が伸びる。9,155,000体が売れた。売れたフレコンには、全部土が入っている。フレコンは、日本政府のみが買っている。汚染された土を入れたフレコンを、汚染されていない土が入れられたフレコンで覆う」。

「なぜかこの模様は、テレビで報じられることがない。みられたらいいのに。大量のフレコンを置くことによって、被爆地の土地が失われる。2016年2月で、置き場が失われた。土地所有者が日本政府に土地を渡さないのだ」。女優達は叫ぶ。「ありえない!」。後方壁面の映像には水面のCG、後方壁面からの映像は水面と暖系のCGが二重に投影される。

女優達は、花言葉を口ずさみながらフレコンから出て舞台をさ迷う。後方壁面からの映像は水面のみとなり、後方壁面の映像は水面にCGが二重映しとなる。「携帯、電波、充電」。女優の一人が、3.11の状況を振り返る内容を話し始める。「沖縄にいて、何の被害も受けていない私。私にできることは何であろう」。

「何で女なんだろう私。なんで私だけ安全なんだろう」。別の女優が語る。後方壁面からの映像は水面に肉片のようなCGが重なる。後方壁面の映像には水面と青い道のようなCGが織り交ざる。女優達は、自己紹介を始める。盛岡、宮城、山形、羽田と、ほとんどが東日本の出身である。後方壁面の映像には黒い地球のようなCGが、水面に浮かんでいる。

後方壁面からの映像は、白地に青の有機的形態が揺らぐCGである。後方壁面の映像は、水面のみとなる。仙台出身の茅根が自己紹介を始める。ヒグマのCGは刻々と変化する。茅根が「本物は沈黙せざるを得ず」と叫ぶと暗転し、50分の公演は終了する。

丹下は徹底的に取材とインタビューを繰り返し、構成と演出を行った。全てが事実であり、事実のままではドキュメンタリーに留まってしまうので、脚色なしに、事実をより深い事実に変奏したのであろう。フレコンについても真実であり、ドイツからYouTubeで発信され、丹下はカメラ屋で実際にフレコンを購入した。

現代芸術の役割は、むき出しの人間の姿を暴き出すことにある。そのため、例えばシュルレアリズムでは夢を援用したり、暗黒舞踏では人間の綺麗なところと穢いところを等価に扱ったり、シュトックハウゼンは音律のない電子音を操ったりする。演劇の場合も同様である。事実を伝達しながらも、感情を乗り越えた人間存在をこの舞台は実現した。

ヒグマによる紗幕は時間の層にも見える。映像は、予め用意されたCGと「いま、ここ」を暴き出すライブ映像を交差させる。そのため、ライブの映像が瞬時に過去となり、用意されたCGが今を越えて未来へ突き抜けていく。ヒグマの映像は記録ではない。創造力である。つまり、映像が持つ限界を、ヒグマは演劇とのコラボレーションによって超えていくのだ。

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Higuma Haruo(Artist)
'90年度文化庁派遣芸術家在外研修員ニューヨークその成果発表を’08年「DOMANI・明日」展(国立新美術館)。映像が介在する表現に固執し「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」を継続中。他にコラボレーション企画「ACKid」、「連鎖する日常/あるいは非日常・展」がある。


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