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落花水・思索/
Higuma Haruo
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川崎市市民ミュージアム 開館20周年記念イベント ライブ・インスタレーション「落花水・思索」 2008年11月1日「落花水・思索」公演の記録です/撮影:川上直行 |
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● | 川崎市市民ミュージアムでの「落花水・思索」は、ワークショップを行いながら舞台づくりをしたいと思っていた。ワークショップも身体の動きに限定せず、映像を投影し感じる身体や紗幕(スクリーン)の吊るし方、デジタルカメラの導入まで含めて、インスタレーション空間を創造することに勤めた。参加者もボランティアとして公募した。実際にワークショップを初めてみると「つくる」ことへの意識の高さに驚いた。中には優れた動きの出来る人もいた。途中から皆んなで舞台に立つことを考えた。ワークショップの様子 は毎回隈無くカメラで撮った。写真を使えばみんなで参加できる舞台が出来る。そう思ったのはインスタレーションの準備をしているときだった。紗幕を切ったり、切った紗幕を角材に取付けたりと、その一つ一つの手際の良さとコンビネーションのよさを見て、いい空間になると確信した。舞台で使う映像も出来るだけリアルタイムの映像を使い、美術館の周りの映像を使うことにした。美術館から武蔵小杉駅まで歩いて写真に撮った。ワークショップの参加者からこんなことを考えているのだがというアイディアの提案もあった。こんな過程を経て出来たのが今回の「落花水・思索」公演は、観客の反応を聞いていて成功だったと思った。その一番の要因は皆でつくっている実感がワークショップを通して生まれたことだと思う。(2008年11月吉日ヒグマ春夫) |
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20メートルを越す天井から床へ、9枚の紗幕が大きく流れている。中央に、臺に乗せられた透明なボールが置かれている。ここには水
が張られ、天井から水滴が落ちてくるように仕掛けられている。左右に植木が置かれ、小型カメラが仕込まれている。 この日は一時間の公演が二回あった。 第一部は、16時から始まった。コントラバスが、明確な旋律を指弾きと弓弾きによって奏でる。即興でありながらも、擦る/叩く/声を あげるなどの行為は行わない。7人が9枚の紗幕の間を彷徨う。若尾伊佐子のみが映像と音に反応し、手足を大きく揺るがす。それぞれ の白い衣裳に映像と暮れ往く陽が映り込む。映像は円を中心としたCGによる動画である。WS生が徐々に退場し、ダンサー4人が残 る。 伊藤智子はチューブを手に持ち銜える。高橋由美は座り込み、小型カメラで自らの足を映しているように見えるが、その映像は紗幕の 中に定かではない。若尾は四足で展開している。岡佐和香は立位置から床へ開いていく。映像に矩形のグリッドが混在してくるが、ま だ陽の光は強く、よく認識することが出来ない。 伊藤と高橋は紗幕の前に座り込む。若尾は暫しの沈黙の後、やはり音に合わせて手足を捩る。岡は紗幕の内部で、立位置の舞踏に挑 む。 若尾が紗幕の前に抜けると、それまで室内から窓に向かって右側の紗幕に後方から投影されていた映像に加えて、右側の紗幕に前方か らの映像も流れる。右は円、左は波に見える。 伊藤は若尾に近づき、チューブを翳す。高橋はようやく立ち上がったかと思うと、退場してしまう。 右は多彩の波、左はモノクロームの円と線のグリッドで、ともに動画である。中央から螺旋状に大きな円が広がる。高橋も退場する。 左側に立つ若尾を残し、右側にいた岡は髪を下ろして退場する。音数も減り、左右ともにモノクロームの波の動画となる。若尾はこの 波に干渉していく。すると若尾のライブ映像が投影される。岡が旋回しながら再入場すると、波の動画に戻る。 音が落ち、映像も止む。再びWS生が入場し、彷徨う。岡はボールの水を両手で掬い上げてはその中に落とす。一人、また一人と消 え、一時間の公演は終了する。 15分の休憩を経て、第二部が始まる。 モノクロームの波の動画と、WSの白黒写真が重なる。7人がゆっくりと紗幕の間を巡る。若尾は泳いでいるように見える。何時しか四 人が残っている。 左側の映像は伊藤の連続写真、右側のそれは伊藤のライブ映像になる。右側がグリッドの動画になると、左側上部に高橋が自身で映す足の映像が投影される。右 側には若尾を背中から捉えたライブ映像が映る。左側下部には伊藤のライブ映像が、この上にモノクローム のグリッドが回転し、ライブとCGが混在する。 自己を照らし続ける高橋に、伊藤はチューブを巻き付ける。若尾はこのような環境に自己を織り交ぜて舞う。床の立位置を岡は工夫する。コントラバスは、相変わらずベーシックに響き渡る。 いつしか舞台には若尾と岡のみになる。CGのノイズに立ち尽くす若尾、床に影を創り出す岡、共に映像の特徴を掴みながら踊る。 モノトーンの波の動画に、街の写真と回転する球体が出現する。若尾は映像に溶けていく。沈黙する。岡はボールから水を衣裳につ け、ふくよかに水を孕み、晒していく。 再び複数の人物が歩き、蹲る若尾を岡が手を引いて起し、連れて行くと公演は終了する。 この二つの公演にはWSの成果、巨大空間との関り、陽の光という三つのポイントがあったのであろう。 まず、WSの成果から考察する。ヒグマはこの公演に際して、WSを三度行なった。この三度に共通する事項は、体を動かすことと映像と 触れ合うことである。それは単なる技術的な問題ではなく想像力と創造力に関わる内容であったため、美術館周辺の写真撮影まで至ったのである。このような想 像力と創造力を身に付けたWS生の動きは単なる動作に陥らず、ヒグマとダンサーの作品の一部として完全に 融合していたのであった。 次に、巨大空間との関わりは充分に成功していたということができる。ライブとCGの映像の組み合わせは緊張感を高め、巨大な紗幕を隈なく廻る姿には迫力が あった。ダンサーも若尾は位置を決めた立位置、伊藤は歩き回るポジション、高橋は腰をつけて自己の体をカメラで映す、岡は床への展開のアプローチと、それ ぞれが多様を窮めたので、複雑な舞台の形成が可能になった。 最後に、陽の光である。16時の公演は映像を明確に認識することができなかったが、17時の公演では陽が落ちて、それを充分に知覚することができた。ヒグ マによると、同じ映像を流していたという。これはヒグマにとって重要なことは自らの映像ではなく、自然光の移ろいだったことを示している。徐々に紗幕の映 像が認識できることは悦ばしいことではあるのだが、陽が落ちてしまうとその過程を楽しむことができない。昼間見る星や月の美しさのように、困難な状況で あってもその美しさを見出すヒグマの感性がそうさせたのだろう。若尾と岡は、二度の公演において瞬時に動作を代えてそれに応えたのであった。(日本近代美 術思想史研究:宮田徹也) |
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