ヒグマ春夫の映像試論

五感の覚醒と平面的な映像の立体化

<DIFFERENCE>2008年12月13日(土)~ 2009年1月26日(月)・国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)

映像試論ノート

 映像を組み込んだインスタレーションを組織し、その空間に身体表現者や音楽家といった個性豊かなアーティストを招いて空間を演じる。こういったことをコラボレーションやパフォーマンスそれにワークショップ等とよぶ。その目的は、五感の覚醒と平面的な映像の立体化への試みである。

 平面的な映像の立体化は、空間に透過性のあるスクリーンを間隔をおいて何枚も吊り下げ、そのスクリーンに映像を投影すると実感することが出来る。プロジェクションされた映像は一点透視の構造をつくりだし、同じ種類の映像が大きさを違えて映しだされている。その空間に入り込むと人は身体を動かす。身体を動かしたくなる。何故だろう。科学的ではないが映像の粒子を浴びるからではないだろうか。あるいは自身の影が目の前の空間に現れ、動きと影が一体になり自身が映像空間に入り込み混ざり合っている錯覚を受けるからかもしれない。いやまだ他にもあるかもしれない体感して探り出してみよう。

 わたしの映像インスタレーションには、よく水が組み込まれている。水は生な水だったりイメージとしての水だったりする。イメージとして使われる「水」は映像化されている。水という物質は、固体、液体、気体と変化するが、水の本質H2Oは変わらないし絶えず水素と酸素がコラボレーションをして成りたっている。だか、「水」は、「水」以外のものは何も表明してはいない。水は水でありそれだけのことなのだ。だからといって「水」を組み込んだインスタレーションが意味をなくすというものではない。「水」は意味性を超えた本質的なところに存在している。だから水を意識的に組み込んでいるともいえる。

 時間と空間という概念を現そうとするとき、映像はそのことを的確に現すメディアのようだ。スタートがありゴールがある映像は、時間軸の象徴でもある。しかし、そういえない現実が生まれているように感じる。それはデジタル化である。デジタル化された映像は、反復を繰り返し増殖し反復する。スタートやゴールがない。このような映像をオブジェ的な映像といっていいのかも知れない。オブジェ的な映像は、ドラマ性の映像と違って順を追って見る必要はない。途中から見てもいいように感じている。だから映像インスタレーションに使うのは適している。

 身体表現者と映像を使ってコラボレーションを行うとはどんなことか。映像インスタレーションは刻々と意味を蓄積し想像の空間に身体表現者を立ち会わせる。当然だが身体表現者自身の立ち方、捉え方も変化する。映像インスタレーションされた空間に、身体表現者が居ることといないことの違いは大きい。映像インスタレーションは、作品と対峙する構造をつくり出す。それは表現者だけではなく鑑賞者をも包み込んだ状態に置く。そこに映像インスタレーションが空間を包み込んで構成するという特長がある。空間に包み込まれた身体は移動したり行為したりする。観客は六感を喚起してしか観ることができない。

 アート・コラボレーションは「嗅覚のコミュニケーション空間」といってもいい。嗅覚のコミュニケーション空間は、「コラボレーション」と「協働」ということばが内面で響き合っていることが前提にある。コラボレーションは、パフォーマンスに近い感触がある。コラボレーションにしても、パフォーマンスにしても、協動にしてもただ単に呼び方の違いではなく実態の違いがあるのではないか。

 協働は、もともと都市的な言葉ではない。山村的というか農村・漁村的である。山村・農村・漁村は、自然が豊かで協働しなければ生活ができない状況にある。ピュシスがある状況では協働が自然と生まれる。協動は、「結」のようなものなのかもしれない。結(ゆい)とは、互いに助け合う精神のことだが、こんな光景が以前にはあった。あれは農村だったが大雨で農道が壊れたことがある。すると村の人がどこからともなく集まって来て道を修復する。また屋根の葺き替えのときなども村の人がどこからともなく集まってきて手伝いをする。田植えもそうだった。田舎では「結」の構造がよく見られた。が、すべてが都会的になった日本は最近どうなんだろう・・・。

 しかし、都市でのコラボレーションは、「結」と同じように捉えるわけにはいかないだろう。とは想う。だがまてよ、今の都会はあまりにも高度に情報がシステム化されて、逆にピュシスを必要としているのではないだろうかともおもう。身体・美術・観客が程よいコラボレーションを知覚したとき空間は動く。そんな空間を構想したとき、その背景には「嗅覚のコミュニケーション空間」が目には見えない形で存在している。そう感じるのだが・・・。

 わたしが映像インスタレーションに求めているものは、平面的な映像を立体的にする構造をつくり、その空間に多くの人を呼び込みピュシスを感じることだろう。

<DIFFERENCE>2004年2月27日〜4月11日・川崎市岡本太郎美術館

空間は無境界性である

空間は無境界性であり、「空間を区切ることはできないが、区切れるように錯覚するのは、空間の中に物体を置くからである」。といわれるように、空間に透過性のあるスクリーンを張り巡らすことで、空間が幾つも区切られ、空間が立体的に見えていると錯覚する。また、時間それ自体も仕切ることはできないが、映像は時間軸で構成されているので、その映像を、空間を区切った透過性のあるスクリーンに投影すると、映像が立体的になって表れ、空間と時間を体験することになる。「DIFFERENCE」という作品は、空間と時間を具体的に経験する装置といってもいいのかも知れない。

この「DIFFERENCE」に使われた映像は2種類ある。一つは、自然的破壊と人為的破壊をテーマにした映像である。もう一つは、自然的破壊と人為的 破壊の映像から受けるイメージを言葉で現し、その言葉自体をアニメーションの手法を使って、映像にしたものである。自然的破壊と人為的破壊をテーマとした映像は、水の球体が、日本から外国、そして、都市・農村・海・川・部屋・カラダ等々を背景に浮遊している。水の球体は、さまよい、ある瞬間は宇宙へ、ある瞬間は地中へ、ある瞬間はカラダの中へ入り込み、自然環境の大切を問う。

差異がどこから出現するのか

ドゥルーズの文章が「DIFFERENCE」のヒントになっている。ビデオプロジェクターは投影すると、一点透視の構造をつくる。空間に半透明のスクリーンを何 枚も設置すると、投影された映像は、小から大へとスクリーンの数だけ画像をつくる。その画像と画像の間を移動することでこの作品は成立する。

そして、ドゥルーズの言葉を借りれば「差異がどこから出現するのか」を見極めることになる。

川崎市岡本太郎美術館での「DIFFERENCE」は、空間に透過性のあるスクリーンを何枚も張り巡らし、そこに映像を投影するという構造をしている。 投影する映像は、小から大へとスクリーンの数だけ画像をつくりだし、一点透視の構造をつくりだす。同じ画像が大きさを違えて差異をつくりだしている。その 画像と画像との間を移動しながら視点の位置を変えて見ると、立体的に空間がつくられていることがわかる。この作品は、様々な差異が立ち上がる場を示唆して いる。と同時に時間と空間の経験をも強要する。