琵琶の秘曲でつづる・平成絵巻『方丈記』


LIG INC.

平成絵巻『方丈記』


出演:朗読・伊藤哲裁/琵琶・塩高和之/五弦ウッドベース・水野俊介/映像・ヒグマ春夫
2016年3月26日(土)開演14:00
会場:日本福音ルーテル むさしの教会



宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

「平成絵巻『方丈記』」の趣旨をフライヤから引用する。「阪神淡路大震災、東日本大震災と大きな災害にみまわれ、激動の時代に生きる今。これからの暮らし方、心の在り方を、日本最古の災害文学であり、第一級の自分史でもある『方丈記』に学ぶ」。

『方丈記』とは何か。作者の鴨長明は1155年頃、下鴨神社の神事を統率する禰宜の次男として生れる。和歌、管弦、特に琵琶の名手であった。晩年出家して日野の方丈庵で隠遁生活を送り『方丈記』を著す。

『方丈記』は乱世にいかに生きるかという自伝的人生論とも、無常観の文学とも呼ばれる。5つの天災、飢饉に関する記述も認められる。漢字と仮名の混ざった和漢混交文であり、仏教用語も織り交ぜられている。

趣旨にもあるとおり、正にこれからの生活で我々が必要としている思想が『方丈記』に隠されている。主催の「YUKIの会」では伊藤哲哉の『方丈記』の原文の語りを中心に、必要不可欠な樂琵琶に塩高和之を向かえた。

「平成」を強調するために、5弦ウッドベース奏者の水野俊介が入る。水野はこの特異な楽器を操りながら現代音楽だけではなく美術、ダンス、映像と数多くのコラボレーションに長けている。

ヒグマ春夫は映像が知られているが、パフォーマンス/インスタレーションアーティストであるから、音の公演に空間性を齎すであろう。視覚と聴覚を逆転させることもヒグマには可能である。計四者の舞台が繰り広げられる。

「平成絵巻『方丈記』」は、2015年12月16日に東京都六本木ストライプハウススペースで初の公演を行った。今回が二回目である。この後、6月10日には神奈川県相模原の相模原南市民ホール、6月30日に兵庫県立芸術文化センターで公演が決まっている。

ストライプは多目的スペースであり、これまでも美術展覧会、ダンスパフォーマンスと数多くのイベントが開催されている。むさしの教会でもキリスト教の展覧会やコンサートが行われているが、このような公演ははじめてではないだろうか。

会場は正に教会だ。正面のステンドグラスにはキリストと羊飼いで構成され、客席は教会だから当然のことながら会衆席である。公演が始まる前に、大柴譲治牧師がメッセージを発した。幸いフライヤとほぼ同内容なので重要な部分を引用する。

「旧約聖書の中にも「空の空、空の空、一切は空である」(『伝道の書』口語訳聖書)という大変に東洋的な響きのする書物があります。ユダヤ教もキリスト教も、仏教やヒンズー教同様、シルクロードでつながるアジアに由来する宗教」です。

「ここで「空」と訳されているヘブル語は「ハベル」という語で、「ため息、はかなさ」を意味する」。「生きるということは実に哀しいことですね。私たち人間の現実を振り返ってみると、「出るのはため息ばかりなり」」。鴨長明の詠う声の中にも深い悲哀を感じます」。

大柴神父は宗教のルーツを探ることによって、西洋の教会で東洋の『方丈記』が詠まれる違和感のなさを伝達した。この理解の深さは観客に安堵をもたらした。通常教会に通う者にとっての不安を払拭したのだった。

ヒグマはステンドグラスと同じ形状のフレームを映像内に設置し、実際のステンドグラスの左側に同サイズ、右側には小中小の三つのフレームを壁面に映し出した。左右非対称であることが遠近感を強調し、より教会で行う意義を深めた。

ステンドグラスの間から見える動画は、左寒系、右暖系の実写が加工された映像なりCGであるのだが、共に緩やかに、微細に移り変わっていく。時にはカタストロフィー的写真が挿入されるが、それは衝撃を与えるためではなく現実と虚構が入れ替わる手助けとなる。

舞台中央に伊藤、左に水野、右に塩高が位置する。公演が始まると、暫く塩高の楽琵琶が鳴り響く。非常に西洋的なフレーズだと感じるが、次第にエタワ派のシタールの響きにも聴こえてくる。それは同時に800年の過去へ我々を導くフレーズでもある。

伊藤の朗読が始まる。抑制を利かせ、時には身振りを織り交ぜて熱意を込める語り口に集中すると、古典語であっても現代語に通じて明確でなくとも鴨長明の意図が伝わってくる。伊藤の呼吸は演奏者のタイミングと絶妙にマッチしていく。 塩高と入れ替わって水野に演奏される五弦ウッドベースの響きは抒情的な歌のようでも、堅固に構築された聖堂のように作曲された曲のようにも感じる。水野がグリッサンドを行えば、塩高はスクラッチを施すといった具合に、現代的な側面も忘れていない。

時間が止まったような、一時間のコラボレーションであった。静かな波を見る、動かない雲を眺める、風と自然光を浴びる。そのような感触であった。教会内の響きは声だけではなく楽琵琶、ベースでも心地よいことを発見した。 朗読を聞き取り解読する、音楽に身を委ねる、映像を認識して解釈する。そのような鑑賞方法もあろう。しかしその何れも行わず、ただ、ここにいることに没頭することも、この公演の楽しみの一つとなるのではなかろうか。

大柴牧師の話にもあった西洋と東洋の垣根を超え、開催の趣旨にもある時間を乗り越えて、私達が感じたり考えたりしなければならないのは「祈り」ではないかと私には感じた。宗教以前の、祈りというコミュニケーションを考えるのは、次回の課題としたい。


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Higuma Haruo(Artist)
'90年度文化庁派遣芸術家在外研修員ニューヨークその成果発表を’08年「DOMANI・明日」展(国立新美術館)。映像が介在する表現に固執し「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」を継続中。他にコラボレーション企画「ACKid」、「連鎖する日常/あるいは非日常・展」がある。
 
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