映像試論ノート/HIGUMA HARUO / ヒグマ春夫/HOME | contact |
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【ヒグマ春夫】映像を組み込んだインスタレーションを組織し、その空間に身体表現者や音楽家といった個性豊かなアーティストを招いて空間を演じる。こういったことをコラボレーションやパフォーマンスそれにワークショップ等とよぶ。その目的は、五感の覚醒と平面的な映像の立体化への試みである。 平面的な映像の立体化は、空間に透過性のあるスクリーンを間隔をおいて何枚も吊り下げ、そのスクリーンに映像を投影すると実感することが出来る。プロジェクションされた映像は一点透視の構造をつくりだし、同じ種類の映像が大きさを違えて映しだされている。その空間に入り込むと人は身体を動かす。身体を動かしたくなる。何故だろう。科学的ではないが映像の粒子を浴びるからではないだろうか。あるいは自身の影が目の前の空間に現れ、動きと影が一体になり自身が映像空間に入り込み混ざり合っている錯覚を受けるからかもしれない。いやまだ他にもあるかもしれない体感して探り出してみよう。 わたしの映像インスタレーションには、よく水が組み込まれている。水は生な水だったりイメージとしての水だったりする。イメージとして使われる「水」は映像化している。水という物質は、固体、液体、気体と変化するが、水の本質H2Oは変わらないし絶えず水素と酸素がコラボレーションをして成りたっている。だか、「水」は、「水」以外のものは何も表明してはいない。水は水でありそれだけのことなのだ。だからといって「水」を組み込んだインスタレーションが意味をなくすというものではない。「水」は意味性を超えた本質的なところに存在している。だから水を意識的に組み込んでいるともいえる。 時間と空間という概念を現そうとするとき、映像はそのことを的確に現すメディアのようだ。スタートがありゴールがある映像は、時間軸の象徴でもあ る。しかし、そういえない現実が生まれているように感じる。それはデジタル化である。デジタル化された映像は、反復を繰り返し増殖し反復する。スタートやゴールがない。このような映像をオブジェ的な映像といっていいのかも知れない。オブジェ的な映像は、ドラマ性の映像と違って順を追って見る必要はない。途中から見てもいいように感じている。だから映像インスタレーションに使うのは適している。 身体表現者と映像を使ってコラボレーションを行うとはどんなことか。映像インスタレーションは刻々と意味を蓄積し想像の空間に身体表現者を立ち会わせる。当然だが身体表現者自身の立ち方、捉え方も変化する。映像インスタレーションされた空間に、身体表現者が居ることといないことの違いは大きい。映像インスタレーションは、作品と対峙する構造をつくり出す。それは表現者だけではなく鑑賞者をも包み込んだ状態に置く。そこに映像インスタレーションが空間を包み込んで構成するという特長がある。空間に包み込まれた身体は移動したり行為したりする。観客は六感を喚起してしか観ることができない。 アート・コラボレーションは「嗅覚のコミュニケーション空間」といってもいい。嗅覚のコミュニケーション空間は、「コラボレーション」と「協働」ということばが内面で響き合っていることが前提にある。コラボレーションは、パフォーマンスに近い感触がある。コラボレーションにしても、パフォーマンスにしても、協動にしてもただ単に呼び方の違いではなく実態の違いがあるのではないか。まだその感触を掴んではいない。 協働は、もともと都市的な言葉ではない。山村的というか農村・漁村的である。山村・農村・漁村は、自然が豊かで協働しなければ生活ができない状況にある。ピュシスがある状況では協働が自然と生まれる。協動は、「結」のようなものなのかもしれない。結(ゆい)とは、互いに助け合う精神のことだが、こんな光景が以前にはあった。あれは農村だったが大雨で農道が壊れたことがある。すると村の人がどこからともなく集まって来て道を修復する。また屋根の葺き替えのときなども村の人がどこからともなく集まってきて手伝いをする。田植えもそうだった。田舎では「結」の構造がよく見られた。が、すべてが都会的になった日本は最近どうなんだろう・・・。 しかし、都市でのコラボレーションは、「結」と同じように捉えるわけにはいかないだろう。とは想う。だがまてよ、今の都会はあまりにも高度に情報がシステム化されて、逆にピュシスを必要としているのではないだろうかともおもう。身体・美術・観客が程よいコラボレーションを知覚したとき空間は動く。そんな空間を構想したとき、その背景には「嗅覚のコミュニケーション空間」が目には見えない形で存在している。そう感じるのだが・・・。 わたしが映像インスタレーションに求めているものは、平面的な映像を立体的にする構造をつくり、その空間に多くの人を呼び込みピュシスを感じることだろう。 |
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「DIFFERNCE」/2002年制作 |
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落花水・思索は、紗幕を何枚も吊り下げ映像を投影している「映像インスタレーション」 | |
2004年/イスタンブール |
1990年〜1991年文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨーク。その成果発表が2008年12月-2009年1月国立新美術館で「DOMANI・明日」展として開催され映像インスタレーションと映像パフォーマンスを行う。 ジャンルを横断したコラボレーションやパフォーマンスを国内外で展開している。アメリカ、カナダ、アルゼンチン、フランス、ドイツ、デンマーク、中国、韓国、イラン、トルコ等。 2002年映像を組込んだインスタレーション「DIFFERNCE」で、第5回岡本太郎記念芸術大賞展で優秀賞を受賞する。釜山ビエンナーレー2002年で映像パフォーマンスを行う。 2004年には「水の記憶・ヒグマ春夫の映像試論」で川崎市岡本太郎美術館で個展。その後イスタンブールのAKBANKでグループ展。テヘラン現代美術館で「The Shining Sun」展に参加する。 2005年府中市美術館でライブ・インスタレーション「深層風景」。映像・インスタレーション・身体・音楽が関係する交差と接触。 2006年横浜赤レンガ倉庫1号館で「日本ーイラン現代美術展」。インスタレーションと関係する交差と接触「落花水・思索」。 大地の芸術祭「越後妻有アートトリエンナーレ2006」ではインスタレーションとパフォーマンス。北京・北京電影学院、上海・半島美術館では「落花水・思索」のパフォーマンス公演を行う。 2008年フランスのリール第3大学と川崎市市民ミュージアムで「落花水・思索」のパフォーマンス公演。川崎市民ミュージアムではワークショップを経て作品づくりをする。 2006年からキッド・アイラック・アート・ホールで、ACKid2006、'07、'08、'09、'10、'11、'12、'12を企画。ACKidは異なるアーティストが協動して舞台を造り上げていく表現の試み。 2008年の5月から「ヒグマ春夫の映像パラダイム」を展開、2013年6月現在Vol.50。映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、といったようなことを追究している。 2009年大地の芸術祭「越後妻有アートトリエンナーレ2009」に「ふれあい写真感-おもいは通じる-」と題するインスタレーションとパフォーマンス。 2012年 波浮港国際現代美術展(大島) 作品の特長としては、水をテーマとし、映像が組み込まれたインスタレーション。紗幕に映像を投影する手法がある。投影する映像は、地・水・火・風・空の五元素をイメージとして制作しているが、最近は「水」のイメージが多い。 また、ソロのパフォーマンスや身体表現者との共同作業も積極的に行っている。 最近の作品としては、「Water Moon・共同制作」「ミズの記憶・記憶する水」「覗き見の部屋」「πの旋律」「落花水・思索」「水の記憶・再生と反復」「記憶の覚醒・冷たい皮質」「ふれあい写真感-おもいは通じる-」「記憶のマナザシ」「氷中の星・共同制作」「3.11の海」等がある。 |
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