ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.1

Visual Paradigm shif Vol.1 of Haruo Higum

「小型カメラを右足甲に括りつける」空気をけずる

2008年6月24日
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
solo・ヒグマ春夫

映像パラダイムシフトVol.1より

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

60cm程の、正方形に膨らんだ透明なクッションが床一面に敷き詰められている。天井から一箇所だけ水が滴り落ち、床に置かれた透明なボールがそれを受け止める。半透明の紗幕が三枚、僅かに重なりながらも後方に掛けられている。公演が始まると、紗幕にヒグマは自らの掌を投影する。その動きは光を操っているように見える。カメラは固定されている様子だ。無国籍な曲が流れ、ヒグマ自身の影がプロジェクターの光を遮る。ヒグマは紗幕に近づき裏側に回ると、クッションに光が差し込み、その様子が紗幕に投影される。裏側に設置されたプロジェクターの蓋を開けると、濡れた路面の映像が裏から紗幕に投影され、表からの光と二重のイメージが重なる。自然音が流れる。水を受け止めているボールにスポットが当る。ヒグマはクッションを手に取り、動かし、映像に被せていく。ヒグマは小型カメラを手に取り、濡れた路面から場内を映し出す映像に切り替える。下部から上部を写す映像が紗幕一杯に広がる。ヒグマの実体、会場風景がそこに重なる。ヒグマは小型カメラを足元から胸を経て頭部へ移動させ、背中を通して下に戻し、振子のように小型カメラを振る。床に置き、手繰り寄せるとその手の動作と床の小型カメラの移動が同時進行して紗幕に映る。パーカッションとシンセサイザーの音が鳴り響くと、場内の映像が切られ再び濡れた路面の映像が投影される。ヒグマは小型カメラを右足甲に括りつける。左足一本でバランスを取りながら右足を伸ばし、天井が危うく映し出される。ハウリング音が響いては消える。無音の中、今度は水の入ったクッションを右足に乗せ、揺るがす。両手でクッションを持ち上げ、中の水の流れを足の甲のカメラに舐めさせる。座り込み、クッションを抱えたその顔を足の甲のカメラは捉える。濡れた路面の映像は、赤と白のグリッド線の動画に代わる。グリッド線は平面から立体に展開し、それは赤い複数の線から円へ、そして再び線へ回帰する。ヒグマは仰向けになって手足を伸ばす。再び場内の映像が紗幕に投影される。瞑想的電子音が流れ、龍、蛇、雛という原初的な容と、水の波紋のような抽象的色彩の光が渦巻き、重なる。波とグリッドの映像に代わり、更にスピード感溢れる実写と変化する。リズミックなパーカッションが流れる。ヒグマは中央スクリーン前にクッションを積み上げていく。この様子が紗幕に投影される。唸るような持続音が鳴り響き、45分間の公演は終了する。

映像パラダイムシフトVol.1より

凡そ20年ぶりのソロパフォーマンスを行なったヒグマの意図は、映像の可能性を問うことにあると公演後、話していた。そこにヒグマが行うことと、ヒグマが見られることという二重の問いがあることは、ヒグマが映し出される公演をみたものにとっては当然の意図と解釈するであろう。しかしながらこの二重性では、視覚的映像的観点のみになってしまい、ヒグマの「身体パフォーマンス」としての側面を見失いがちになってしまう。

「パフォーマンス」とは何だろうか。特別な肉体の訓練を経ない美術家が平面/立体という概念を超克するために作成された「作品」は1950年代に〈具体派〉が行い、それを知ったアラン・カプローが1959年、ルーベン画廊で行なった「ハプニング」がその発祥と言われている。勿論、二十世紀初頭のバウハウス、ダダにその根源を求める研究も多いが、それは舞台、詩を含めた「総合芸術」と解釈すべきであろう。「ハプニング」は日本では「行為」「イヴェント」とも呼ばれ、1970年代のコンセプチュアル・アートやミニマル・アート、ラウンドスケープ・アートと融合しながらも、1980年代にはヨゼーフ・ボイスの来日をきっかけに爆発的に流行し、その頃、「パフォーマンス」と呼ばれる様になったという見解が一般的だ。ヒグマも当然、このような動 向と無縁ではないのだが、今回のパフォーマンスは、映像を用いて何かを「見る」というコンセプトが含まれているように思う。そのためヒグマは当日配布したパンフレットで「このコンセプトは雫にある。雫は床の受け皿に波紋を広げている」としながらも、この波紋を小型カメラで捉えることは最後までなかった。ではヒグマは何を「見たい/見せた」かったのであろうか。映像では捉えられないもの、みるのではなく「感じること」、それが「見ること」との対話になっていたのではないだろうか。そこに必要なのは、ヒグマ自身の身体が創り出す「見ること」の残像と、見る者が同化する人体というフォルムではなかったのか。ここには「見ること」と「見えること」の逆説は含まれていない。我々は映像というビジョンを用いて何を見ているのだろう。その様な問いを発する機運がここで行われていたのだった。

水を容器に入れ公園の水たまりに置く
Water Moon

WATERMOONは地球に一番近い星です。その星で五感を全開したクリエーター達が(身体・映像・音楽・美術)融合し、共創しながらドラマを醸し出します。
1)WATERMOONに耳を傾けると、鼓動の響きがとても良く聞き取れます。
2)WATERMOONに鼻を近付けると、土地にしみ込む雨の臭いがします。
3)WATERMOONを見つめると、水しぶきが飛んできます。
4)WATERMOONに口付けすると、・・・まだ解りません。

照明:坂本明浩
撮影:川上直行