DOMANI・明日展 2008/THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO/HIGUMA HARUO


January 11, 2009 (Sun) Performance by HIGUMA Haruo

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宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

ヒグマは展示場に入って一番奥の空間の右壁面をスクリーンとし、プロジェクターを向けている。壁面前の床には、直系150cm程の円形の紗幕が置かれている。

高速で宇宙を進むようなイメージの動画CGが投影される。そこに座禅を組んだ人体が浮かび上がる。輪郭のみを残し、中は白く染められている。ヒグマは同じ姿勢をとり、向き合い、近づき、円形の紗幕の上に乗り、暫く動かない。  

映像の座禅を組んだ人体が立ち上がると、ヒグマも立ち上がり、白い風船を膨らませる。立ち上がった人体像に風船を右手、左手と持ち替えて翳す。映像とヒグマは同じ大きさであるにもかかわらず、重なることは決してない。  

人体は体を白色から透過し、中主尾的な骨のCGが晒され、スピードを上げて様々な色に展開している。周囲には地球のCGが巡り、ヒグマが持つ風船はそれを追いかける。  

人体は吊り上げられたカジキのイメージに変化する。その中は五色に彩られている。カジキは花と花瓶に変化する。ヒグマはプロジェクターを動かし、その映像を常設の紗幕の中、場内の壁面と巡って投影させる。花瓶は頭を落とされた魚へ、魚から更に円となって中では飛沫をあげる波の動画になる。  

波の動画は魚眼レンズ的視点に変化し、地球となり、輪郭のみになると太陽のコロナのような炎が燃え盛る。それは日食に似る。炎の動画は自在に角度を変え、赤の面は寒色の円となり、その円は分裂した後に線となる。線は人形に基づいた四体の矩形を作りあげる。三体の人体の中は赤く、一体の中にはCGが蠢く。やがて赤い人体のうち二対が燃え上がる。   

ヒグマは床に置いた小型カメラに切り替えて、カメラを覗き込む自己の顔を映し出す。ゆっくりと腰を上げていく。ヒグマの顔が遠ざかるのか、映像が引いていくのかという錯覚が生れる。

ヒグマは両手を床から離し、膝を曲げたまま上体を起していく。カメラに向ける視線は外さない。再び膝を曲げ、顔をカメラに近づけていくと、物凄い速さでスライドされるモノトーンの建築物の写真に映像を切り替える。

ヒグマは円形の紗幕を手に持つ。ここにも映像が映りこむ。前に翳して後退し、壁面と手に持つ円の紗幕の間に自らを挟んでいく。極限まで達すると前に進み、背を反り、腕を動かして円の紗幕を様々な方向に向ける。映像を全角に翳すというよりも、鏡が全てを受け入れていくようにも見える。

光が止み、25分の公演は終了する。

この公演は無音で行われ、ヒグマの身体は素材としてのみ使用された上にライブ動画が少なく、CG映像が中心であるからパフォーマンス要素が薄いように感じられる。

ここで重要なのは、ヒグマの実体が隠されているからこそヒグマは全てを晒していることである。

ヒグマ自身の動作に注目すれば、さして大きな変化はない。しかしはじめにヒグマは映像と一体化し、風船を膨らますことによって自己を風船に委ね、映像を投影することによって完全に自己を消し、無表情の顔のみを映すことによって自己を映像化し、円い紗幕を持つことによって映像と分離する。

この行為が単独で行われているとすれば、また別な意味が発生するだろう。しかしここはヒグマ春夫の《DIFFERENCE2008》内である。この作品とのこの場、この空間性、時間性、若しくはこの作品の制作期間が持つ時間性と、この日のパフォーマンスとの関連性、更に他の作品も展示されている〈DOMANI・明日展〉という展示空間、それを取り巻く新美術館という場所を考慮に入れると、ヒグマは現在に生きて今しかできないことを行なっていることになる。

予め用意されたCGであっても、それを制作したのはヒグマであり、もしかしたら《DIFFERENCE2008》以前の作品かもしれない。以前に他の場所で使用されたことすらあるのかもしれない。この点において、通常の身体的パフォーマンスにおける時間性と空間性は破壊される。

この記録が映像として、年月を経て上映されることもあるだろう。その際に、この空間性と時間軸は何処にいってしまうのだろう。

これは即ち、映像のみが持つ特徴を最大限に引き出しているということができる。しかし同義語として、複製技術だからこそ可能な試みであるとは言えない。

映画や音楽という時間性が強く、オリジナルが失われつつある芸術でもこのような形式をとることは出来る。文学においては、音読、朗読という反復の作業が存在する。絵画や立体作品は死んでいない。同じに見えるのは、神の視点を人間が棄てていない証拠である。

これは想像力の問題である。それは人体のフォルムが変形する姿にも表れている。我々は技術を携えたことによって、太古の人類の想像力を超えるどころか衰えているとさえいうことが出来る。より見ることが可能になったため見えなくなる、見なくなる、見て考えなくなっている。

ヒグマはこのような芸術における、否、文化における想像力の持ち方を問いかけているということもできるのではないだろうか。


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Placeholder image 撮影:川上直行


Higuma Haruo(Artist)
'90年度文化庁派遣芸術家在外研修員。その成果発表が'09年国立新美術館で「DOMANI・明日」展として開催され映像インスタレーションと映像パフォーマンスを行う。 '02年映像を組込んだインスタレーション「DIFFERNCE」で、第5回岡本太郎記念芸術大賞展で優秀賞を受賞。'04年「水の記憶・ヒグマ春夫の映像試論」で川崎市岡本太郎美術館で個展。その後イスタンブールのAKBANKでグループ展。テヘラン現代美術館で「The Shining Sun」展。'05年府中市美術館でライブ・インスタレーション「深層風景」。'06年横浜赤レンガ倉庫1号館で「日本ーイラン現代美術展」「落花水・思索」。 '06年、'09年大地の芸術祭「越後妻有アートトリエンナーレ」 '06年からACKidを企画継続中。'08年から「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」継続中。


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