back 映像空間の経験・1 / Higuma Haruo



  

  


映像空間の経験・1     宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
                 
ヒグマ春夫のギャラリーKINGYOにおける新しい企画である。趣旨を当日配布されたフライヤーから全文引用する。
       
映像空間の経験のコンセプトは「記憶・時間・空間」です。記憶の対義語は忘却です。時間の対義語は空間で、空間の対義語は時間です。一つの現場に意識的に 入れ込むには矛盾があります。が、わたしたちは、こんな矛盾の場で生きています。写真の歴史を語る必要はありませんが、写し込んだ世界を定着させたい想い から生まれたのは確かです。写真を見ると記憶が蘇ってきます。写真には意識していなかった無意識の世界が写りこんでいるといったのはベンヤミンでした。定 着はしないが世界を写し込む「水鏡」は記憶と忘却が遇いまって興味深いです。映像には「水」が時々現れます。このシリーズは、あえて写し込むことにこだわ りました。写して対象化することで共有する「記憶・時間・空間」が生まれるのではと考えたからです。だが、あくまでも即興のパフォーマンスです。立ち会う ことで現場は成立します。(2010年4月29日・ヒグマ春夫)
         
ここから読み取れる内容を箇条書きする。
・コンセプトは「忘却・空間・記憶」であり、矛盾しているがそれが現実である。
・写真とは「水鏡」であり記憶と忘却が入り混じっているので、映像には水が現れる。
・「写し込む」ことに拘り、即興は見る者がいることで成立する。
          
これらを前提としてヒグマは、美術の紙田鏡子、音楽の加藤千晴、身体の森下こうえんという全く異なる分野の共演者を選出した。「写し込む」拘りとして紙田 の際には予め屋外で撮影した紙田のライブ映像、加藤と森下の際には美術の吉本義人のアトリエで撮影した空間や素材、工具の写真に以前撮影したダンスの写真 を組み合わせ加工したものを使用した。
         
この加工した写真を見て、私はシュールレアリスムを思い起こした。引用する。
           
ブルトンが発案するシュールレアリスムのやり方を強化した美学は「美というものが発作的である」という考えにあり、すべての存在や考えが表現を通すと何か に変形される特質があり、さらに発作的な美を表現するには3種の別々の様式があるというのである。すなわちエロティク・ヴワレ(ベールのかかった好色 性)、エクスプロザント=フィクス(固定された爆発)とマジク・シルコンスタンティユ(状況の魔法)である。最初のは、2つの明瞭な対象が同じ形体(一方 が他の隠喩になる)の中で表される、重ね合わせの一種と説明されるものである。マン・レイ作「アングルのヴァイオリン」(http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/text/manray/manray2.htm)の写真(1924)がこの手法を例証してくれる。(中略・引用者)2番目のは、踊っている女性が突然にエキゾチックな花の形に釘付けされたのが認められるマン・レイの写真のエクスプロザント=フィクス(http://billyjane.tumblr.com/post/584593827/more-man-ray-explosante-fixe-1934-from-la)(1934)にうかがえるように、表現した人か対象が運動中に止められて次の瞬間には別の形態を真似るのを扱う手法である。最後のマジク・シルコンスタンティユの状態はおそらく?ダリ作の絵画「記憶の固執」(http://www.moma.org/collection/browse_results.php?object_id=79018) (1931)にある、例えば固体の塊が柔らかい形に融解するように見える視覚的表現?奇妙に偏執狂的な世界?と絡む対象の操作によるトーテム(族霊)的な 幻覚?木製のスプーンの柄の端にある興味をそそる小さな靴と偶然に遭遇して、ブルトンが「自分にはそれがユニークで見たこともない何か女性の象徴」を暗示 していると感じた、というオブジェ・テゥルヴェ(美術品でない物を美術品にした)?いわば偶然との遭遇も含めた主観的な解釈にある程度もっと基づく、3種 のなかでとりわけ複雑なものである。どのレベルでもしかし、変質(化体)の状態に見える形態がまさに欲望のはっきりしない呪物崇拝的な対象となって連想が 個人的な意義を獲得することがはっきりわかる。(白石和也『視覚デザインの歴史』大学教育出版/2000年)
            
即ちヒグマが作成した写真には、上記の三種と類似したものが含まれているのである。ヒグマとシュールレアリスムの関わりを考察するというよりむしろ「連想」が重要になってくる。
          
いずれの公演も45分ほどであり、客席は後方で、左右の壁面にはその際使用した写真若しくは作品が2、3枚展示され、前方の白い壁面をスクリーンとして演者が中央の空間を縦横無尽にさ迷った。
           
紙田はドローイングに集中する。床に座り込んだり、壁面に紙を押し付けたりと、様々だ。ヒグマは手持ちとプロジェクター脇に置いたカメラでその様子を追 う。白い壁面には紙田が横浜港大さん橋でドローイングする姿が映し出されている。即ち、会場には記憶と忘却の二人の紙田が存在することになる。それは同じ 紙田=形体であっても異なる質=対象が重なり生まれるエロティク・ヴワレの技法を思い起こさせる。軽快な電子音は紙田聡によるものだ。途中、紙田の作品を 加工した写真と紙田自身がその中に写りこんでいる写真が何枚かスライドされる。ここには行為しか映されていないが、ヒグマは行為を映すことに意味を見出し ていない。行為が映す/映し出される=記憶され、この空間と時間の中で忘却される。このコンセプトの中に、紙田の作品や紙田自身のフォルムを追うことも含 まれているので、どのような見解を示すことも可能だ。ただ、写真や映像の美しさのみに目を奪われてしまっては、ヒグマのコンセプトに届かなくなる。芝居が かった演出を全く行わず、ただ描くという存在感を示した紙田のパフォーマンスは、何時までも記憶に残るであろう。そしてここで描かれた数々の線は、画面に 定着されていたとしてもヒグマのコンセプトによって何時までも宙を漂い続けるであろう。なお、この作品で使用された映像は、DVD作品として編纂されてい る。
          
加藤は気配を音にするように、じっくりと空間を左に回りながらヴァイオリンを演奏する。ハーモニクスとアルペジオを多用し、ヴァイオリン本体を揺すって音 を変化させる。右手は指、弓が弦を弾き/擦り、左手もまた押さえる/擦る/弾く奏法であったが、音を多重に生み出すことよりもむしろ確実にそこで必要な単 音を生み出すことに終始した。ヒグマは写真をスライドさせる。古色のような吉本のアトリエのそれだけではなく、モノクロの廃墟、風景がそのままの矩形で あったり、人体の形に刳り貫かれていたり、ズームされたりする。当然、加藤のライブ映像も投影された。写真を写真として提示するのではなく、このように実 際の時間を交えながら様々な形で、様々な速度でスライドすることに、この公演の意義がある。吉本が背負う時間と空間が転移し、変形し、記憶に留まるのだ。 このような映像に対して加藤の演奏は、極めて「音楽的」ではなかった。加藤もまた、音楽を変形させ、まるでエクスプロザント=フィクスのように瞬時に前の 音を真似ながら別の形態に変容させる。幅の広い加藤だからこそ成せる技で、近年の加藤のパフォーマンス中、ベスト1に入る公演であった。そう考えると加藤 は音を発しているのだけではなく、加藤が持つ「佇まい」がこの公演に影響しているのではないかと憶測することができる。なお、この公演はヒグマが用意した 写真のスライドと当日の加藤の音源を合わせたDVDとして編纂されている。
               
森下は自らを「身体表現者」とし、演劇をベースとしたとプロフィールで示しているが、その動きは演劇というよりもダンスであり、コンテンポラリー・ダンス が持つメソッドというよりも舞踏的な内面との対峙を感じさせる。顔を青く着色し、中央に背を向けて座り、立ち上がり、写真を見詰め、眼鏡をかけて交互の耳 を塞ぎ、鼻にティッシュを詰め、壁際に歩み、緑の軍手を着用し、左奥の扉を開けるように擦り、背を反り、手を翳し、膝を折り、体の向きを替え、左側面を下 にし、水中を漂うように床を反転し、赤子のような声を発して上体を起こし、映像を目に入れ立ち上がり、両手を差し伸べ自らの気分=調律=Stimmung を外と交換する。今回はここにヒグマの映像が絡まっているので事情は複雑だ。ヒグマは吉本のアトリエの写真だけではなく、アンテナ、煙突、烏、神社、雪の 駐車場、並木道といったモノクロの風景写真、マネキンのカラー写真、人体が切断されたようなセピアの写真がスライドされ、拡大と縮小を繰り返す。モノク ロ、セピア、鑢で擦ったようにエフェクトされた写真が代わる代わる低高と速度を代える。鳥獣、黒地に白線、線と面のモノクロアニメーションも使用した。会 場のライブの場面では、森下が三人に増殖した。正にマジク・シルコンスタンティユの状態であると当てはめることができる。森下は踊りによって踊り以外のも のを示したのだった。それは何か。
           
このようにヒグマ春夫の映像空間の体験は、様々な展開を見せた。それはヒグマが我々に見せたというよりも、我々がここからそれを見出したのかも知れない。 即ちそれは、ヒグマが様々なパフォーマーを変容させたのではなく、自らもまた、変容していたことを表している。

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「映像空間の経験」のコンセプトは「記憶・時間・空間」です。








   
2010年4月29日(木曜日)17:30 スタート
 映像:ヒグマ春夫
 美術:紙田鏡子(ドローイング)
 会場:ギャラリーKINGYO

   

紙田鏡子(ドローイング)
ドローイング、銅版画を中心に、「線で感触を表現する」ための作品を制作、発表。都内での個展等活動中。

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HIGUMA HARUO(映像・美術)
「映像空間の経験」を企画しました。コンセプトは「記憶・時間・空間」です。キワードとなるのは、写真と身体です。身体は、ダンサーや舞踏家の身体に限定していません。むしろ異なる表現者の身体に焦点をあてています。2009年大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2009で「ふれあい写真感-おもいは通じる-」というインスタレーシを創りました。この作品は来客を撮影した写真オブジェが増殖していくといものです。ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトは、映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、 といったようなことを追究しています。1年に一度、ACKidの企画があります。他に水をテーマとした作品を川崎市岡本太郎美術館府中市美術館川崎市市民ミュージアム・国立新美術館・テヘラン現代美術館等で発表しています。

   
2010年4月30日(金曜日)17:30 スタート
 映像:ヒグマ春夫(素材:吉本義人アトリエ) 
 音楽:加藤チャーリー千晴(バヨリン奏者・即興
 会場:ギャラリーKINGYO

   

加藤チャーリー千晴(バヨリン奏者)
小学生の頃から即興を始める。国立音大卒。多数の演劇とダンスの音楽を制作、演奏。静寂の中の音、音が音として発生する直前の現象に興味を持つ。

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2010年5月1日(土曜日)17:30 スタート
 映像:ヒグマ春夫 
 身体:森下こうえん(身体表現者)
 会場:ギャラリーKINGYO


  

森下こうえん(身体表現)
演劇を経て身体パフォーマス。自分を含めた『人間』とその『意識』が気にかかり87年より演劇。肉と骨と影を求めて今世紀より身体パフォーマンス。

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 加工した作品とパフォーマンス